自分の力で生きている

学会から離れて早20年。

勤行することも題目をあげることも
学会活動をすることもなくなった今の暮らし

大きな不幸がおとずれたか?
そんなことはない

苦難続きの日々か?
そんなこともない

もちろん、これから苦難はおとずれるかもしれない
その時に祈りたくなったらまた御本尊に向かいたくなることもあるかもしれない。

でも、毎日楽しく自分らしく生きている

「学会から離れたら大変なことになる」

そう刷り込まれて育った子供時代だったけど、自分の中での違和感を拭えず、学会員ではない暮らしを選んだ。

それでもやはりまだまだ追いかけてくる創価学会。

玄関ポストには、いまだに地区の婦人部から会合のお知らせのメモが入ってくることがあるし、先日はカレンダーらしきものが入っていた(即処分した)

地区の婦人部ふたりが立ち話をしている場面に出くわすことも多く、その前を会釈して通り過ぎるたびに心が小さく小さくざわつく

実母と電話で話すと「お題目」の話が頻繁に出てくる。

それでもよくぞ私は離れられたと思う。
あれだけどっぷりだった世界から抜け出せたと思う

それは夫の存在も大きい。

夫の話はまた書くとして。。。

先日、私のことを共通の友人に
「創価大学出身で、親も地方の大幹部。書籍に載ったこともある」
と超絶勝手に話してしまった学会員の知人。

この知人は学会員としてではなく、別の場所で知り合ったので全く気にせずお付き合いしているのだけど、この「勝手に話された事件」のあと、先日久しぶりに直接会った。

しばらく話した後
「先日は勝手に話しちゃってごめんね。思わず口がすべった」
と切り出してきた。

多分切り出されなければ私からは何も言わなかっただろうな〜
またいつもの
「何を言っても無駄感」がいやで。

「あ〜〜。まぁいいよ。私からもちゃんと彼女にはもう今では学会員とは言えない、と話したし」
って応えた。

その後、やっぱり学会の話に。。。。

「私はもう今学会を必要と感じていない。本当に苦しいことがあった時に祈ったりすることは、もしかしたらあるかもだけどね」

あ。。。。。!!!!!言ってしまった
学会員の大好物の言葉
「祈ったりすることは、あるかも」

そこから彼女のスイッチオン!!!

「お題目はすごい」
「今毎日1時間以上の題目に挑戦している」
「私は信心がなければ生きていなかった」
「やっぱりお題目はすごい」

・・・・

・・・・

・・・・

そして極め付け。。。。

「あなたが元気でいられるのは、お母さんがめっちゃくちゃお題目あげて祈ってくれてるからだと思う」

・・・・

・・・・

・・・・

・・・・

一番聞きたくなかった言葉

私は母の祈りが本当に嫌だった。

それを口に出すのも罰当たりで言ったことなかったけど、

遊びに行って帰ると「無事を祈って題目あげていた」
受験終わって帰ると「力を出し切れるように題目あげていた」
熱が出ると「熱が下がるように題目あげる」

家族の行動すべてに「題目の雨」を降らせていたのだ。

それはまるで一度アンケートにメールアドレスを書いたが最後、続々と届く宣伝メールのように。
そのメルマガは解除方法が書かれていないのだ。

母の祈りはメルマガ解除できない。
これは今も変わらずなのは知っている。

うとうとしながら、っていうことも多いけど
母はまるで祈祷師のように時間があれば、ドでかい仏壇の前に座る

最近よく言われるヘリコプターペアレンツ

過干渉な親のことを言うのだが、この「題目で無事を祈る」もまさにそれなのだ。実際にその場所に行って子供を監視するわけではないが、「魂を飛ばしてくる」のだ。

普通に聞いたら
「離れていても、無事を祈ってくれる家族」なんて、こんなありがたいことはない

となるだろう。

だから私は「やめてほしい」も言えなかったし「祈ってほしくない」とも口から出せなかった。

でも、確実に私の心は嫌がっていたのだ。

今回、その辺をよく考えた。


あ〜〜〜これって、ビジネスでいうところの
「熱量の違いを埋めることなく押し付ける」と同じだ。

私たちはたくさんの「宣伝」「営業」に囲まれている

下手な広告や営業はなぜあれだけ「いや」なのか?

上手な人の語る売り込みにはなぜ心が動くのか?

熱量の違いなのである。

相手の心の熱量を無視して押し付ける営業ほど気分が悪いものはない

「売りたい」だけが先行しているのが見え見えだから。

相手が欲しいと思っているものを売るのが営業なのに、欲しいと思う気持ちを育てることもなく、熱量が違うまま「売ろうとする」、それに人は嫌悪感を持つ

たとえその「売りたい物」がどんなにすばらしい物だったとしてもだ。

私は「宗教ってビジネス」と思っているけど、それは上層部の話だ。

一般の信者はまったくの市井(しせい)の人々。

天性の素質があるか、営業職の経験がある人でもない限り、なかなかそういうことは分からない。

だから相手が聞きたいと思う土台ができあがっていないのに、本質的なことをズバズバ話して折伏しはじめる。そしてほとんどは毛嫌いされるわけだ。

そしてそして、それが友人、知人、親戚ならば
「距離を取る」
「適当に流される」
ということになっていく

でもそれが家族となると話は別。

生まれてすぐに入信(入会)させられ、
物心着く前から嫌がろうが何しようが毎日勤行、唱題の声を聞かされ、
気づけば勤行するのが歯磨きのように習慣化させられ、
あたりまえのように会合に行かされ、
人生の師匠も決められ
読む新聞も決められ
死ぬまでの生き方もレールができていく

熱量の違いがあったとしても「しつけ」と同じように刷り込まれていく価値観。

ここが二世の苦しさなのかもしれない。

もう一度言おう。

私はやっぱり頼んでいないのに一方的に送られる「題目」はいらないのだ。


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