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2021年上半期の本 ベスト10冊

きっかけは宇佐見りんに間違いない。
一月に芥川賞受賞というニュースが飛び込んできた日、私は確かに動揺した。昭和生まれの年上世代が若手作家と扱われ文芸誌に寄稿しており、まだまだ自分は若い、これからだと思っていたのが、4つも年下の現役大学生の受賞だとは。発破をかけられた気分。
ちょうど夜に出歩くこともなくなり、人ともめっきり会わなくなっていた。私は過去や思い出を清算するかのようなものを描こうとした。三月末に書き上げたものをすばるに送ったが、第一に構成が小説といえないだろうし、内容も練られていない。読み捨てるには暇つぶしになるかもしれないが、多くの人を苛立たせるだけだろう。落選が決まればこのnoteで供養するつもりだ。
三月途中から違う作品を書き始めていて、現在第7稿を推敲中だ。気を衒わず、妥協せずを心がけていて、一向に終わる気配がない。だから今は少し寝かせている。
今年上半期に読んだ本は、今の文芸誌上の作家がどんなふうに書いているか、調査する目的もあり、現代作家が多くなった。
しかし、文芸誌に掲載されているものは、創作だけではない。何かにまつわるエッセイや書評などが多く、その書き手は、詩人とか演劇方面の人とか、批評家とか、新人賞デビューの小説家以外であることも多い。
私はこれまで多くの作品を批判してきたから、これが見つかるとイロイロ問題があるような気もしてしまう。というのも小説家というのは仕事で、相手あってのものなので、そこはサラリーマンと違わない。
そんな人間が、新人賞に応募しようとしていること自体、矛盾しているのではないか。
ほんとに自信ある作品なら、自分でネットに載せるなら出版するなりすればいい。読んでくれる人は0ではないだろう。
ちなみに、Googleやyahooの検索画面で「俳句」と打つと、私の書いたnoteの記事が出る。
「超有名な俳句11選」というやつだ。


こいつはすでに累計40000回以上の閲覧がある。(ま、俳句がテレビでもやってるからだろうが)

10位『十七八より』は、kindleで買って読んだ。かつて感じていた電子書籍への嫌悪感は、いってみれば肥大した自意識にすぎない。文学好きたるもの紙の本を愛すべしという信仰にはまりこんでいたわけだ。
最も大切な本を、紙の手触りとともに何度も味わうことは何事にも変え難い至福ではあるが、「読み捨てる」ことが流儀ともいえる現代文学に限れば、YouTubeで動画を見るようにどんどん消費していけばいい。

歳をとった現在の阿佐美景子が、かつての自分を「少女」あるいは「姪」という三人称を用いて描くという構成。構成ばかりが話題にのぼるが、私が気に入っているのは構成ではない。
常に細部へのアプローチと、モチーフだ。


姪は背中を弓なりに反らせて壁に頭をつける。それから自然と視界に入ってきた天井をしかめ面で眺め、改まった調子で、どこかたどたどしく暗唱した。「無能だというのは、と彼は考えるのだった。小説の書けない人のことではない。書いてもそのことが隠せない人のことなのだ」 「それ、誰?」 「チェーホフ」 「誰が言ったのよ」 「チェーホフだってば」と姪は語気を強めた。 「小説でしょ? 誰が言ってたの?」
「忘れた。『ヨーヌィチ』の中だった」
「じゃあ、ヨーヌィチが言ったのよ。ドミートリイ・ヨーヌィチが。チェーホフが言ったんじゃない。強靱って、ヨーヌィチみたいな人間のことを言うのよ」
 この頃の少女が読んでいた本のほとんどは、叔母の書棚から拝借したものである。『ヨーヌィチ』も例に漏れない。──乗代雄介「十七八より」


強い意志を感じる形式への挑戦と引き換え、描く女性に対するオタク的憧憬はこの作家の短所ともなりえるだろうが、「読み捨てる」読者にとっては楽しいご褒美でしかない。寛容な家族の(しかし朝ドラ的ではなくリアルな)愛情を受けながら、鬱屈した美しい女子高生は悩みながらも生き続ける。

9位『夕べの雲』は、新聞に連載された小説である。これよりエッセイの4位『庭の山の木』を上位にしたのは、この作家のエッセンスの私なりの取り入れ方だ。

「私はその百日紅の木に憑かれていた」は、福永武彦『草の花』の冒頭であるが、私自身はここ数ヶ月、鈴懸の木に憑かれているようだ。
白い皮の幹に、大きな緑の葉が怪獣の手のひらのように繁っている。
自然へのまなざし。
中学時代の恩師、伊東静雄との、生涯に及ぶ交流が描かれるが、私がこれを読んで胸にくるのは、以前に伊東静雄詩集を読んだことがあるからだ。
読書の経験が、他の読者にいきてくる、というのは往々にしてあって、脈々と繋がっている大きな樹木のようなものだから、いつだって戻ってくる。木登りしたり、木陰で休んだり。

8位『旅する練習』は、三島由紀夫賞を取ったもので、私はその日に乗代氏の会見を見たが、想像していたより遥かにコミュニケーション力が高そうだった。塾講師をされていたくらいだからまあ当たり前か。
この作品のラストの、中村文則の選評による批判はまったくもってその通りだと思った。しかし、その通りであることが賞の可否を決まるものでもない。賞に正当性はもたせられない。
今作を通しても乗代の関心のひとつが柳田國男と田山花袋の友情にあることがわかる。

7位『やがて忘れる過程の途中』は、小説家である滝口悠生のアメリカアイオワ州滞在記である。日記の形式が採用されていて、初めの方に書かれた文章は最後の方に書かれた出来事の起こるまえだ。明治時代から、異国での体験を記したものは小説家のものもそうでないものも星の数ほどありそうなものだが、この本を読んで思うのも、実際に体験してみないと分からないよな、という実存への信頼だった。

この作者の小説を2018年にまとめて読んだ。そのうちの一冊についていたハガキに感想を書いて送った。この日記は2018年のことが書かれているから、「もしかして言及されてんじゃね?」という気も心の片隅に持ちながら読んだ。当然そんな描写はなく、私に起こったことといえばコロナ禍での「減給」だけだ。

弊社は外資系で、新入社員の動機にもインドネシア、ベトナム、中国籍の人がいた。日本国籍でのアメリカへの長期留学者がかなりいて、研修を受けながら話した記憶をこの本を通して思い出した。

6位『影裏』は、初読は感動しなかったが、きっと文章に惹かれてに違いない、もう一度読んで、これはいいと思い直した。併録されている「廃屋の眺め」を、実は文芸誌に乗ってるときに図書館で読んで、しかもその鮮烈なラストをちゃんとおぼえていた。昨年あんなに感動した後藤明生など、ほとんど中身を忘れてしまったというのに…。読んでるときに心に迫るものと、あとからボディーブローのように効いてくるものがある。作品の質でいえば後者のほうが高いだろうが、それは文章のテクニックや技術とはそれほど関係がなく(全然ないわけではない)、いかに作者が書かねばならぬと信じている物事が書かれているかによる。また読者一人一人の境遇もある。作品との出会いはそのまま人間との出会いに呼応している。

以下は「影裏」単体でnoteにまとめようとして中絶したものだ。読み飛ばしてもらってもちろん構わない。

推定枚数80枚の本作は、1.2.3の3章構成である。筆者は一読してそれほど良いと思わなかったが、再読して感想が変わった。いかに読み飛ばしていたかを実感した。
突然の時系列の変化は、丁寧に読んでいないと見落としてしまう。そのようなわかりづらさを作者の意図と見るか、デビュー作ゆえの瑕疵とみるかは読者に委ねられそうだが、文學界新人賞の上限が150枚であることを考えれば、もう少し丁寧に書く方法もあったのではないかと思う。

3章の入りが秀逸だ。はじめ読者は時間の経過を把握できないが、回覧板をまわす「次の人」が、「わたし」にとっては厄介な老婆である。その老婆が、元教え子の娘の書いた作文という形で、東日本大地震がテクストに表出される。徹底した間接ぶりである。
この物語が2010-2011年であるという事実は、日浅について語る場面で「一昨年のアメリカの暴落」と書かれているところで判明する。が、筆者はこれを読み落としていたので、てっきり作品が発表された2017年あたりだと勘違いしていたのだ。
それまで連絡を取らなかった知人が、盛岡市を青森県の県庁所在地や、津波で被災した町だと勘違いして急に連絡をよこす場面など、これも「わたし」の感想なしに淡々と描写されるが、非常時に限って「良い人」であろうとする人間の嫌らしい場面、偽善的な場面、もしくは、非常時にはそういう心配をしなければならないという同調意識、倫理観が垣間みられて、その醜さが筆者には心地いい。もちろん、そういう連絡は人として当然などと本気で信じている読者もいるには違いないが。こういう描写で大事なのはやはり作者が立場を決めつけないことにある。

「わたし」は和哉と交際していたが、日浅の売り込んだ結婚プランナーで、妹のようには結婚できないと書かれている。
また日浅に対して恋愛感情を抱いているのではないかと推察されうる描かれ方をされている。日浅が女と釣りをしているというあとに、「わたし」が気分を害している部分など、嫉妬ではないかと思われる。
しかしそれは断定できない。和哉は性別適合手術を受けることになるのだが、つまりトランスジェンダーであり、心が女性の和哉を性的対象とみなすことは果たしてゲイなのか?
しかしそのような用語を用いることが人間の性愛について理解を深めることにはなりえない。
というあたりから、性的マイノリティを描いたことが評価の対象になっていたりするけれど、こういうことが描かれることが当たり前の世の中にならない限りマイノリティへの偏見のない世界にはなり得ない。

5位『1973年のピンボール』3位『風の歌を聴け』は、再読なので省略する。どちらも物語全体が寓意に満ちており、細部にも全体にも暗喩(メタファー)が散見されるが、私が関心を抱き好きなのはそういう技法の見事さではない、ということは強く言っておきたい。私が愛しているのは、かつて存在して、今は消え去ったものに対する追憶や哀惜、そのような普遍的でかつ言語表現の困難な抒情の描き方に他ならない。

2位『バナールな現象』は、凄かったというのは覚えているが、1月に読んだのでほとんど忘れた。それで2位というのも問題かもしれないな。大学教員である木苺の学問や学会への諦念や、湾岸戦争に対する距離感などに、リアリティを感じたのが大きい。大学教員は多かれ少なかれだいたいこんな感じで生きながら、ツイッターではいかにも希望にあふれたリベラル的発言を行っているんだろう。なんとなく気づいてたことを小説という虚構の中で読めたから気持ちよかったんだ。ま、人それぞれだけど。というのも、普段小説の翻訳で世話になって勉強にもなってる翻訳者の教員でさえ、SNSでは辟易するツイートが多いから。実名でやってるツイッターは基本的に読むもんじゃないな、と思ってる。

1位は『最高の任務』。併録の「生き方の問題」に関しては以前記事を書いた。


「最高の任務」は、阿佐美景子もの最高傑作だと思う。分ぶく茶釜のくだりが好きだ。大学卒業後の彼女の話も読みたい。これから乗代先生は書いてくれるだろうか。人は忘却できうる生き物だ。私はそれは人間の強みだと思ってる。叔母喪失の記憶も、少しは薄れるだろうか。


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