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乗代雄介「生き方の問題」を読んで

乗代雄介の中篇小説「生き方の問題」は『群像』2018年6月号に掲載された。
また、2020年1月に発売された単行本『最高の任務』に収録されている。
原稿用紙換算145枚のこの作品は、そのテクスト全てにおいて、語り手である「僕(祥一)」が「貴方(貴子)」にあてて書いた手紙という体裁をとっている。ただしそれはあくまでも体裁であるということは強調すべきだと思う。そのことはこのテクストが「乗代雄介」という署名つきで雑誌に載り本になっている時点で自明であるが、それだけではない。
一読して、意味が通らない部分がほとんどない。我々は、公にされた歴史上の人物の書簡を読むことができるが、そういうもののように、注釈なしでは読めない表現や、送り手と受け取り手の共通理解の外側に追いやられるということもなく、小説として読むことができる。
「僕」が「貴方」に対して書いていることを強調するような叙述、また書いている現在が常に更新されていくことを示す叙述もある。
私はこの文章で、小説として書かれた「生き方の問題」という作品を読み解いていきたいと思う。いや、頭の中で読み解いていることを、文章に書き記すといったほうが適当だろう。

表題にもなっている「生き方の問題」について直接的に語られる部分は2箇所ある。

1箇所目はごく序盤に記されている。


彩子ってのはまちがいなく愛くるしい子だった。(中略)その姉で僕より二つ年上の貴方の器量が悪いとか、そういうことを言いたいわけじゃ全然ない。目の大きさも歯並びも、体型だって変わらない。なのにあの頃の彩子が華やかに映ったのは、ぼちぼち結果も出そろったようだし暴論を許して欲しいけど、生き方ってやつの問題だったんだろう。貴方に僕、そして彩子。子供が三人いる中で、血縁者たちのやりとりがいつも彩子を中心に進まざるを得なかったのは、一番年下だったからってわけじゃなかったんだ。


この時点で読者は、「僕」「貴方」と彩子を隔てる「生き方ってやつの問題」が具体的にどういあことを指すかが分からない。以下、その詳細を求めて読み進めていくことになる。

子供時分から群馬県足利市にある祖父母の家で親たちに可愛がられているのは彩子であり、「僕」と貴子はそうではない。二人は奥の板間で身体をくっつき合わせて『よい子への道』という絵本を読む。「僕」はその中のなすという話とともに、この体験を至福として記憶している。
その後貴子はジュニアアイドルとなるが、「僕」の母は「優れない表情」であり、また足利の実家ではそのことを誰も話題にしない。
この頃実家で貴子からイメージビデオのDVDを手渡される。「僕」はセミヌードシーンのあるイメージビデオを何度も繰り返してみる。
次に会ったとき貴子は高校生で、スマホのアプリを「僕」にやらせるが、ハリネズミの部屋を飾律からそのゲームは「ルナベルを服用している者専用の管理アプリ」である。
この後の「僕」は浪人し、大学入学、卒業、就職する。浪人時、いつもの夏の帰省を「僕」は「問答無用で置き去りにされ」る。「一人息子がそんな状況に陥ってへらへらしている体たらくを見せるわけにはいかないというんだ」と本文で説明されている。
「僕」の両親の価値観が読み取れる重要な記述である。一方貴子については、素性も分からな男と半同棲状態という噂、そしてこの帰省により、出産を経ての結婚を経験したことが分かる。

のちに妹の彩子がトリマーとして頑張っていることが語られる。ジュニアアイドルになり半同棲している貴子は、実家の両親や親戚(「僕の両親」)からネガティブに思われている存在であることがわかる。
その後貴子は祖父の葬式にも出なかった。
「僕」は葬儀の日の深夜に祖母から電話番号を聞かれ、教える。貴子について訊くと、「離婚して元気だ」と知らされる。
その後突然貴子から電話がかかってきて、この手紙が書かれるきっかけとなった運命的な日がやってくる。二〇一七年七月一〇日。
貴子との再会の日である。

貴子の主導で行われたこの日の出来事は、山を登って縁結びで名高い織姫神社に行き、そこで貴子が「僕」を性的に誘惑し、性交を行うも、

風のような何かが茂みを揺らす。それによって貴子は行為を中止する。
二人は下山し、銭湯にいき、帰宅する。
翌日、貴子が養育費の工面、その他もろもろの相談をするため意を決して両親の元へ向かう間、「僕」は貴子の子供二人の子守りを頼まれる。その出来事についても「僕」は四万字を費やして書いたが、のちに全てを消した。
貴子が熱心に読みたがるのは、むしろこの出来事だけかもしれないという考えを同時に記しながら。
テクストは一年後の現在、三日後に届くように指定された手紙についての言及をはさみ、あの日の翌朝を最後に閉じられる。

この作者によるテクストの閉じかたは語り手による意図を踏襲しているものである。
貴子の子供二人が語り出す直前で恣意的に「ちょん切られている」この書き方(というのは貴子への身の寄せ方ともいえるだろうが)をトカゲの自切に自ら喩える。
最後に「僕の計画」を書かないのは、「あとがきや解説を読みたがる不届き者に違いない貴方が、最初に僕の計画を読んでしまわないように添えられた全体のおわり」である。
つまり貴子がこの手紙を最後だけ読んでも、「僕」の直接的なメッセージ、要求は書かれていない為伝わらない。
ところが我々読者には、とんでもないサプライズが待ち受けているわけだ。

トカゲの自切に自らを喩え、活きのいい尻尾ではなく、動かないが血の通っている我が身の方を捧げる。この捧げ方こそ、2箇所目に登場する「生き方の問題」である。しかも傍点つき。

ところで「僕」が「生き方」という表現に固執しているのには理由がありそうだ。
それは山を降りたあと銭湯で女湯と男湯の壁越しに語られた、この日の貴子側の戦略がわかる場面だ。
貴子は15歳からピルを飲んでいたが、18で勝手に辞め、そのために妊娠し(やがてシングルマザーになる)た。貴子は性行為の前「僕」に「薬飲んでるから」というが、それは嘘である。
しかも危険日で、この日貴子が妊娠すれば、「僕」と結婚でき、養育の経済的な問題も解決すると考える。
この考えはのちに明らかになるように家族で唯一貴子の味方である祖母の入れ知恵である。それに乗っかるように「バカだから、考えなしに動いちゃう」と自覚している貴子が起こした行動なのであった。「祥ちゃんのこと好きだしさ。小さい頃から、ほんとに」と付け加えられた言葉に、嘘は見いだせない。
銭湯で貴子は「僕」に謝るが、その時にこう言う。

「今日、付き合わせてごめんね。全部、こういう生き方しかできないあたしが悪いから。祥ちゃんは気にしなくていいから、みんな忘れて」



この言葉を聞き、「気にするに決まってる」と考える「僕」は、実際に気にし続けて一年後のこの手紙に繋がっているわけだ。
原稿用紙145枚分使って貴方に対して書くという行為を行う「僕」の生き方と、「今日、付き合わせてごめんね」と謝ることになる一日を実行する貴子の生き方。


以下印象に残ったことを書き残しておく。

・銭湯の女将の発言

銭湯の番台の女将は貴子に早く結婚して子供を産むようにいう。田舎の中年のステレオタイプのようにも映るが、私個人にもこういうタイプの人間で思い浮かぶ身近な人はいる。
しかし貴子は子供を二人も産んでいる。「僕」の描写する貴子は巨乳であるにも関わらず痩せていて、「二度の妊娠にも黒ずむことを免れた乳首」ということであるから、目ざとい女将も気づかないということか。
しかしその後、翌日の朝の場面で、「あたしの相手が祥ちゃんじゃなくてよかったって言うんだよ」と貴子は「僕」に教える。
これは、「僕」が貴子になぜ元旦那と結婚したかと質問したことの仕返しであるように思われるが、実は番台の女将が貴子の真実をすべて知っている、なんていう読みもできるのでは、とちょっと思った。

・アジの開きの右側

山の頂上で話す好きな食べ物の話は、小さい頃の再現である。子どもの頃から月日が流れ、得たものと失ったものは数しれない。
貴子の好きな食べ物はアジの開きの右側で、なぜかというと、
「骨取っちゃったら何の心配もないでしょ」

このnoteは誰に向かって書いてるのだろうか。いや端的にいえば、「生き方の問題」を読んだ人に書いているのか、それとも「生き方の問題」を読んでいない人に書いているのか。
前者なら問題ないのだが、後者あるいは今ちょうど読み進めている途中だという人を想定して、これ以上は書かないことにする。
しかし「アジの開きの右側」!
この作品を私が傑作だと思うその背骨の部分(ちょっと宇佐見りん入っちゃったが、まあアジは魚だし)は、まさにここにある。

・年上の女への憧憬 

「僕」の大学時代は一切書かれない。好きな女性に向けた手紙なのだから他の異性との交流をそこに書くなどということをしないというのは納得できるわけだが、そのためこの場合重要になってくるであろう「僕」のそれまでの性体験の有無が分からない。
ただ語られるのは幼少期からの貴子に対する思慕であり、それはダンテのベアトリーチェに対する思慕のように伝統的なものである。
どうやら私はこの年になってもこういう話を読んで胸を突かれるどころか、こういう話を物語の理想のように思っているふしがある。
また作者の立場を考えても、美しいもの、儚いものへの思慕はそのまま創作の動機となり得るし、創作することによって慰められもするのである。
私がこの小説をヘテロセクシュアルの男性が喜んで読み、女性をはじめとするそれに当てはまらない人には好かれないだろうと直感的に感じる点はそこにある。
(ちなみに、例えば川上未映子の小説などは、比較的女性に好かれ、男性に好かれないんじゃないかというふうに直感的に感じている。)

・引用の縮小

乗代雄介の小説は「本物の読書家」をはじめ引用を多用したところに特徴があったが、本作は手紙という体裁というやや特殊な方法を除いて、他人の文章で作品の土台を作ることをしていない。私もしてはやはり自分の言葉で練り上げた小説を読みたいと思うし、相変わらずの表現力の高さはすごい才能ある書き手だなと思う。


最後になるが、はっきり言って、私はこの小説に衝撃を受けたのだ。そして何度も読み返している。
綿密に練り上げられていて、方法においても、ストーリーテリングにおいても、足利の山を登るというモチーフにおいても、私を惹きつけてやまない。
単行本併録の「最高の任務」は、女性の語り手「私(阿佐美景子)」によるもので、彼女をめぐる作品の3作目にあたるわけだが、「生き方の問題」とは違った趣向でこれもまた良かった。
こちらについてもまた書けたらいいと思う。

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