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隣人

今住んでいる貸家の下の階の住人はファミリーだ。時たま夜の9時か10時に子供の泣き声が聞こえてくる。迷惑なほどうるさいわけではなく、かすかに聞こえてくる感じ。
その時は下の階の住人だとは思っていなかった。
去年の秋頃だったか、たまたま玄関を出る時タイミングが被ったときがあった。向こうが僕に気づいていないようだった。その時に母親と小さな女の子を見た。母親は髪を赤く染めていて、若く見えた。黒の革ジャンを羽織っていた。
父親は見たことがない。なので母娘の2人暮らしなのかもしれない。
同じ建物に住んでいるのに、普段はその存在を気にもとめない。  

去年まで住んでたアパートの隣人は日本人ではなかった。電話する女の声がぼんやり聞こえてくるときがあったが、日本語ではなかった。おそらく中国語で、留学生なんだろうと思っていた。  

隣人とはなんの交流もない。引越したときに挨拶もしていない。そのことに引目も感じていない。ただ、隣人が若い家族であったり外国人であったりすることは僕の人生で当たり前ではなかった。  

22歳までのあいだ、隣人といえば「市原さん」だった。僕は母方の祖父母とともに暮らしていた。お隣さんが市原家で、夫婦の年齢は僕の祖父母より10歳ほど下だ。2人の子供は家を出て家庭を持っているが、たまに孫を連れて帰ってくる。僕の部屋から子供を見送る市原さんの様子が見れた。
もっとも僕が「市原さん」と認識してるのはおばさんだけで、おじさんの顔はあんまり覚えていない。おばさんはお正月になると僕と弟にお年玉をくれた。
僕が祖父母と暮らし始めたのは小3からで、両親が離婚したことがきっかけだった。登下校の最中に市原さんと出会うとなんやかやと声をかけてくれた。
祖母と市原さんが花に水をやりながら世間話をしているなんてことがあった。  

市原さんは僕が大学生になってもお年玉をくれ続けた。僕は恐縮して、なんでそんなに気を遣うんだろう、と思っていた。しかし好意は嬉しいから母親と弟と菓子折をもってお礼を言いにいく、みたいなことが一年に一回あった。
その度に市原さんは僕のことを「勉強を頑張ってる」と褒めてくれた。
大学も卒業が決まって東京に就職することになった正月、やっぱり彼女はお年玉をくれた。
僕はこれで最後だろうな、と思ってやはり母親と弟とお礼にうかがった。
市原さんは白髪が増えていて、腰が痛いといっていたが、元気そうだった。僕が就職のことを報告すると「立派に育った」と感動していて、僕にというより母親に対して、「あんたの育て方が素晴らしかったんや」といった。
僕はそれに賛成だ。母親は常に僕の意志を尊重し続けた。「大学を辞めたい」と言った時、だめだとは言わなかった。ただ、学費を返すことと、その後生活費を渡さないということを約束させられた。その上で選んでいいといわれた。  

門限をきつく縛ることもなかった。自分が門限が厳しかったから、息子にはそういう目に合わせたくないと思っていたのだ。
「勉強しろ」と言われたこともなかった。自分がしてこなかったから、息子に言えるわけがないと思っていたのだ。  

確かに、僕の母親の子育ては見事だったと思う。僕はともかく、弟は高卒で消防士になって、立派に働いている。父親がいない状況のなかで、祖父母の助けを借りつつではあるが、僕に最大限の愛を与えてくれた。
市原さんは母親に、「わたしはいつでもあんたの味方やから」と言っていた。その言葉で母親ひ涙を流していた。
僕はそのときも感動してはいたが、これを書いてる今の方がよりいっそうじんときている。  

僕が生まれてから小2まで住んでいた家にも隣人がいて、そこの奥さんと僕の母親は親友だったり、そこの次男が性転換手術をして女になったりした話もあるけど、それはまあいいや。
もうすぐ久々に京都に帰るんだけど、家族はもちろん、市原さんにも会えたらいいな。照れくさいけど。

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