同人雑誌『概論』

同人雑誌『概論』のページです。 寄稿は常時募集しておりますので、公式X(Twitter)のダイレクトメール及び、メールアドレス(gairon848@gmail.com)よりご連絡ください。

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最近の記事

小説の要素分解

文責:大島昴 ご挨拶  夜寒の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。気温が激しく乱高下しインフルエンザやマイコプラズマが流行しているこの不穏な時期、体調には気を遣いたいものです。斯くいう私も丁度高熱にうなされながらこの記事を書いているところでございまして、恐らく記事が公開される頃には病院で何らかの診断を貰っていることでしょう。ここ一週間文字通り何にもしておりません。食事と薬以外はベッドの上です。いやはや本当に恐ろしい......  さて、前回までは三つの描写とそれぞれの関係性

    • 【連載企画】10年代試論~最後の戦後とローカルな文化圏についての論考〜 一、10年代文化の前史としてのゼロ年代インターネット空間

      文責:てると  わたしが「ローカルな文化圏」ということで指すものは、或る郷愁の混じった追憶である。その一連の「出来事」を物語化することでそれを終わらせ、さらにそれに引き続く展開を追い、考察することで、わたしたちの生きる20年代を「発見」しようとする試みである。  そのためにわたしは、ゼロ年代からの「インターネット空間」の流れを追うことになった。インターネットの空間性はこんにちしだいに失われて、徐々に界隈化が進行しているが、それは社会全体の動きとも軌を一にしている。そうしたこ

      • ユダヤ思想家としてのヘルマン・コーヘンについて簡単な紹介

        文責:屈折誰何  今回は単発回である。この『概論』で私が隔週連載している部分と全体に関わる倫理についての試論を一旦小休止し、ユダヤ思想家としてのヘルマン・コーヘンを簡潔な形で皆さんに紹介したい。  まずヘルマン・コーヘンという人間について、1842年はドイツ、アンハルト=ベルンブルク侯国(現ザクセン=アンハルト州)コースヴィヒの敬虔なユダヤ人夫婦のもとに彼は生まれた。ギムナジウムを二級生までいた後ユダヤ教神学校に転学するも、神学の勉強に飽き足りず、哲学研究に没頭し爾来哲学

        • 描写の包含関係について

          文責:大島昴 ご挨拶  清秋の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。この清秋の候とは文字通り清々しい秋の様子を表しているようですが、執筆時の東京は秋というには少々暑すぎますね。涼しい日も増えましたが、うたた寝からはっと目覚めるように気温が持ち直すこともあります。 残暑、と言った方が正確なのかもしれませんね。寒暖の差と秋雨と、不健康の種がそこかしこにある時期ですが私は今こうして記事を書いている通り、安楽椅子の上でぬくぬくと過ごしたいと思います。  さて、前回は情景、行動、心理と

          美的なものの経済性と権利について

          文責 林東国  芸術に於ける作者の権利、つまり我々の一般に知る所の著作権について、より正確には、「作品に対する権利が作者に帰属する」という近代の常識的な観念について、それを最もラディカルに疑い得るだけの材料を我々は果たして持っているであろうか。そして、こうしたイデオロギーに対抗し得るだけの何らかの経済的、ないし社会的アプローチは可能であろうか。何故このような事を問わなければならないか、私的所有権の絶対という近代の法原則が基本的に道徳的なものである事がないという問題を問わなけ

          美的なものの経済性と権利について

          循環のうちへと正しい様式で入り込む?①解釈学的循環の概略史

          屈折誰何  さて、部分が全体を追い越すことは可能か、もし可能だとするのであればいかなる条件によってかを考察するにあたり、私が前回この『概論』に寄稿した『部分が全体を追い越すとき』では倫理こそがそれにふさわしいのではないかと考え各用語の整理を行った。今回も引き続き当座の話題を扱っていくがその前に少し遠回りをしようと思う。それは「理解」をめぐる解釈学的循環の話である。  解釈学的循環をめぐる問題はF.アストによって主題化され、その後F.シュライアーマッハー、J.G.ドロイゼン

          循環のうちへと正しい様式で入り込む?①解釈学的循環の概略史

          文化的エートスの反復

           キリスト教への回心によって霊的に開かれたわたしだが、恐らくそのことによって、お盆が到来し現象的に祖母や母親とのことを強く思い出し、涙を流すことになった。この事態について整理しておきたいと思ったことが本稿の動機であるが、そのことは、日本の上部西洋文化と下部重層文化の接続という近代以来のあの問題系に直接コミットすることになると思う。ここにつまずくことの危うさは多くの人が知るところと思う。 文化的エートスの反復  お盆というのは明らかに、家族を捨てて出家する仏教よりは、先祖崇

          文化的エートスの反復

          小説における三つの描写

          文責:大島昴 ご挨拶  厳暑の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。暑さもピークを迎え、私も日々文明の利器に頭を垂れながら恵の風を享受しております。扇風機のスイッチを入れれば誰だって宇宙人になれる時代ではありますが、体の不調には気を配りたいところですね。申し遅れました、本記事を執筆させていただきます、大島昴と申します。以後お見知りおきを。  私は主に文芸評論の方面で『概論』に関わらせていただく予定でございます。そして評論のやり方として自分なりの理論、読み方を駆使して行っていこ

          小説における三つの描写

          偉人を研究することについて

          寄稿者:黒井瓶 小便について  江戸中期の戯作者に木室卯雲という人物がいます。彼が著した『鹿の子餅』という笑話集の中には、「小便」と題された次のような小咄が収録されています。  少々下品ではありますが、僕はこの小咄をとても好ましく思っています。笑える上に弁証法的ですらあるからです。  この小咄の弁証法的性質を詳しく説明しましょう。「便所」という目的と主体との間には当初「雨戸」という障壁が存在していました。そして主体は、「障壁が消え去れば主体は目的に到達できる」という考え方

          偉人を研究することについて

          部分が全体を追い越すとき

           部分と全体とはどのような関係であるのか、メレオロジーと呼ばれるこの問いは哲学史上洋の東西を問わず多くの議論が見られる。  例えばプラトンの『パルメニデス』にて形相そのものでないものは何らかの形相を分有しているとするソクラテスの萌芽的な「イデア論」に対するパルメニデスの批判として、分有されているものが形相全体であるならばそれは(本来「一」であるはずの)形相が諸々の個物に無際限に複製されることになるし、形相の部分であるとすれば(形相は「一」でありそれ以上に分割され得ないため、)

          部分が全体を追い越すとき

          アンチ・フィロ=ソフィア序説〜グノーシス主義に抗して〜

          『概論』開始の挨拶 この度、雑誌『概論』を始めることになりました。第一回の発表は主宰を務めます田代剛士(てると)が寄稿させていただきます。お読みいただけると幸いです。 『概論』の理念  『概論』は、思想の新基軸の打ち出しと、各人の主体的な発表の場となることを基本的な理念とする。発表した内容には寄稿者が責任を持つこととし、そのうえでの能動的な執筆と思索を支持し、また本誌における思想の相互交渉を促進する。その他の方針は、交渉から形成される思想が判断を嚮導するだろう。 アンチ

          アンチ・フィロ=ソフィア序説〜グノーシス主義に抗して〜