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愛の形を可視化すると風船のようなものになる。

まずはタイトルの意味から
野島伸司のドラマ『世紀末の詩』で竹野内豊が愛の形を見せたくて最後に出した結論が無数の風船。
その竹野内のアドバイザーである山崎努が演じる教授(潜水艦を作っている)なら今回のような話をしそうだな、と思いタイトルを決めました。あとは人間が暮らす地球も風船みたいなものだから、やはり愛の形は球体なのかな?と詩的に想い。

地球における直線とは?地球の直径は12,742kmですがその直径の球体(完全球体でないとはいえ)に人間サイズが立つとA4の紙に描いた直線はほぼ「真っ直ぐ」な線である。じゃあ、ユーラシア大陸くらいの大きさのレジャーシートに直線を描くとそれは真っ直ぐな線ではなくなる。シートを空中に浮かせないで地面に沿わせたら、水平な平面ではなくなり(いわばドームテント状になり)真っ直ぐでない線となる。

数学では直線とは真っ直ぐな線ではなく最短距離の線と定義される。曲線とは最短距離ではないなめらかな線と定義される。飛行機に乗って東京からニューヨークの最短距離は真っ直ぐな線ではなく、平面地図に起こすといわゆるカーブを描く線となる。
逆に平面地図上の真っ直ぐな線は球体に直すとカーブした線となる。
地球儀でそれを試せば一目瞭然だが。
問題は12,742,000mの直径の球に対してせいぜい2mの体長の生命体は直線だか曲線だかが感覚的に分からなくなる。

数学を大学受験向けに勉強している人には基礎中の基礎だろうが、y=x2という二次関数は逆放物線カーブのグラフとなるがある一点間際を拡大していくと曲線は直線に近づく、そのある一点の変化度=角度(傾き)を計測する導関数を求めること微分である。
人間は地球という曲線で出来た立体のある一点を拡大図のように見ているので、微分の説明における曲線と直線と同じような現象が生じている。

極大、極小、微分という概念は理系の人は当たり前に持ちあわせているが、文系の人はその概念はなく、目に見えるものが真実であるのが文系人の特徴だろう。宮澤賢治の銀河鉄道の夜におけるプリオシン海岸で海岸の地層と思われた場所が巨大な牛の祖先ボスの化石の全体だったのと似たようなものだ。
学術師は、そのことに関する発言もしている。簡単に言うとノミが見る世界と人間が見る世界は違うということ。

私は経済学部を出ていて若干、文系でも理系寄りだが、それでも目に見えるものが真実派ではある。

宇宙空間、特にワームホールやブラックホールでは3次元的秩序は滅茶苦茶に破壊されている。

人間は地球にいる限りはほぼ秩序を保った3次元空間に安住しているつもりだが、宇宙に出なくとも人が想像する以上にカオスな空間に存在している。しかしデフォルメという都合の良い感覚器官による作り替えで曲線を直線と思い込むような変換を人間は行っている。

そもそもまだ目が半分見えない乳児の見る世界は混沌に満ちている。それは脳内の認識の問題だけでなく、乳児の見る世界の方が空間や現象をピュアに正確に捉えているかも知れない。要するにデフォルメによる変換しない世界は混沌であるということ。

極端な例はブラックホールに入れば秩序は保たれない。しかし地球上でも多かれ少なかれ混沌は存在する。それは先ほどの球体における直線や極大、極小の概念に置き換えれば似たようことが分かる。

世界は平面のお盆のような形をしていると信じられた時代もあり、今は小学生でも地球は名前の通り球体だと知っている。しかし、人間サイズにしてみれば大きいため球ではなくほぼ平面として捉えて物事は決められている。その考え方は正解なんだろうが、極小の世界に入っていくと完璧な平面は球体においては存在しない、ということになる。地面に対する平面は厳密にいうと小さなシートでも微妙にドーム状を描く。地面に対してでなく空間に対する平面は最終的には宇宙空間まではみ出てしまう。

数学者には基本的過ぎる話でしょうし、文系人間にはなにやら哲学的なワケわからない話でしょうが、地球儀の直線と平面地図の曲線が一致する話は文系人でも実感できましょう。※私も文系人間であり、文系人間を嘲笑している話ではありません。視点の違いというもの。

ただコロナ禍のように混沌としてくると、目に見えるものを真なりとする文系というか一般的思考より、数学者的発想で例えば経済なども捉えた方が正解に辿り着くかもしれない。

あるいはもっとシンプルに考えて目に見えるデフォルトされた世界を真実と思い込むことが、オールドノーマルとニューノーマルの乖離による戸惑いを解消する方法なのかも知れないという前述と真逆な考えもまた、取り入れていきたい。

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