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アイ オブ ザ タイガー〜闘争本能の真実

巨匠手塚治虫氏は漫画という表現技法を用い、神とは何かを表現し続けたクリエイターと言えよう。
『火の鳥』や『ブッダ』がその代表作だし、『きりひと讃歌』や『アドルフに告ぐ』などの人間ドラマも人間の内なる神を描いている気がしてならない。

比喩的表現上で「神」というべきものを同様に私は認定する。

神を換言すると、自然の摂理ですかね。

各種宗教では神のことを創造主と呼んだり、

創造主とはつまりは自然の法則そのものですね。

猫を飼っている人は猫の持つ野生に多かれ少なかれ気づくだろう。

普段は人間に爪を立てたり、噛んだり、シャーッてやらない大人しい猫でも、スズメやネズミなどの小動物を仕留めようとしたときに見せる本能は、肉食動物特有のハンター気質、小さな暗殺者の素顔が顔を覗かせるだろう。

うちで飼っている猫は一応血統書付きということもあり、気位が高いのか、気に食わないことがあると人間にもシャーッをやって下手したら引っ掻いたり、噛む(あまがみではない、かと言って超本気でもない。)野生の本能全開のネコだから、そんな戦闘本能を何故神様(自然の摂理)が備えたのか、日々哲学的に想うことが多い。

月並みに言えば生存本能由来の戦闘本能。
それでほぼ間違いなかろう。

猿の亜流であるニンゲン(ホモ・サピエンス)も大型肉食動物ほど
でないにせよ闘争本能を持ち合わせている。生存本能は勿論、生命に皆共通だろうし。

闘争本能を剥き出しにすると傷つけ合い(精神面、フィジカル面両方で)が日常茶飯事となる。エスカレートすると殺し合いにも発展する。

成熟した社会ではそれは止めましょうという共通認識=ルールを設ける流れに必然的に進む。

とはいえ、人間の抑圧されたその闘争本能は、何かキッカケがあると爆発し表に現れる。

それは喧嘩、戦争と呼ぶ現象のメカニズムに相違ない。

この辺までは中学生でも、いや早熟した小学生でも書ける内容であろう。

ただ、その点では万人に分かりやすい話だ。

無理にかっこつけて、教授レベルの論文のように肩肘を張る必要はない。エリック・バーン氏によって提唱された交流分析におけるゲーム分析などが心理学のカテゴリーからの解析を混ぜようと思えば出来るが、それはよしておこう。

よって衒学的な方向にいかないよう気をつけたい。

ここから、具体論、実体験記録に切り替える。

昨日ビジネス上のことで若者と喧嘩をした。それはビジネスでありがちな冷戦という喧嘩ではなく、お恥ずかしながら沸点に達した私の湯沸かし器的な怒りの爆発による熱い短いバトルだ。

原因については双方の見地、もしくは問題に対する背景知識、理解度の相違に基づくものであり、それぞれの主観的な主張があるから、一方的に相手をなじるつもりはない。しかし、若者だからは関係なく、一方で若者だからということも多いに関係して、とにかく私はキレた。

キレたら負けとか、短気を起こしたら損とか、
そういった正論は百も承知。

一方でここで怒らないとナメられる的な側面も当然ある。

テクニックや演技、パフォーマンスでキレるということもあるが、

そんな戦略的なわけでもない。

ただ単に本能に従って。猫のシャーッという闘争本能とほぼ同じものが働いたという限りだ。

しかしそうは言ってもビジネス。
その若者の上司にはオタクの部下と喧嘩してしまい申し訳ないと謝罪はしている。

勿論本人ともまだわだかまりは双方あれど双方の言い分の違い、誤解を解いた上で仲直りはしたい。

しかし昨日は私の怒りのマグマが大き過ぎ、それを受けた相手の憤慨、恐怖が大き過ぎたのか、電話でのこちらからのアプローチを3回遮断している。そのあたりは子供っぽいと思うが、そこは別問題だから置いておいて

関係修復はしたい。ビジネス上、それがお互いに最適解であれば、当然そうすべき。

この具体例は当人同士にしかわからない問題も含んでいる。
つまり今回のことだけでなく、似たような小さなマグマが過去に何回も噴出しかけて抑えて、溜まっていたものが噴出するなど。

そんな裏事情やエキスキューズはあれど、前述のようにキレたら負けや短期は損気は反省するところである。

兎にも角にもその噴火の要因はニンゲン含めた動物が本能として備わっている闘争本能であることは間違いない。

神は生命にとって無駄な性質、本能を与えないということはかなりの真実であるから、

その本能を出し過ぎたり、かと言って、抑え込み過ぎたりせず、

適量を発散させながらいきたいものだ。

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