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純度の高い常識とは

月並みな所感ですが、価値観もしくは人間の根源を形成する基本的な考え方や感じ方は人それぞれ異なる。

そんな異なった個体が群れて社会を形成するときに、普段は不毛な争いを避けるべくお互いの違いを浮き彫りにさせないために、自分の個性を敢えて前面には据えないようにしているものだろう。

それがスイッチが入り、そこだけは譲れない範囲で議論が起こったときに本音を隠し切れず、争いが起きる。

そんな口論において「普通は○○と考えるよね」とその人にとっての常識において「普通」が登場する。千者千様の「普通」が存在するから、純度の高い普遍的な普通は存在しない。よって議論は平行線を辿り論点がお互いずれた不幸な罵り合いに発展する。

普遍的、客観的な普通は存在しないから微分のように「ほぼ」「だいたい」の形で便宜上コモンセンスと(常識)いうものを作る。
その場合尺度として用いられるのは自然の摂理に逆らっておらず合致しているか否かというモノサシであろう

自然の摂理が必ずしも人間にとって有益とは言えない。自然災害というものもあり、母なる大地はときに一つの種全体を滅ぼす悪魔にもなる。それでも摂理に従うことは多くの場合に於いて快適であり、歪にならないから、自然の摂理に従う考え方が常識と近似値になる。
環境問題しかり。

ここに正義という概念を持ち出すとそれはもう、その立ち位置毎に時には真逆な正義が多数存在し、相入れることは難しい。
よって私は正義という概念はまず疑ってかかる。確率論で自然の摂理に従ったコモンセンスは半ば疑問の目を向けつつ、とりあえずそれを羅針盤とせざるを得ない。

それでもその羅針盤を巡る解釈が人それぞれ異なるから、やはり常識や普通という概念を口論に持ち出す事ほど不毛なことはない。

その人それぞれの違いを認める思想、ジェンダーやダイバーシティというものが有名だが、そこまで極端な違いに留まらず、似た者であっても厳密には違いがあるよという前提に立って組織内でふるまうことは極めて人づきあいの上で重要かと思います。

冒頭述べた通り、このエッセイ自体が極めて月並みな話なのですが、休暇中という組織から距離を置いて改めて痛感する部分を徒然なるままに記述しました。

こういった概念は養老孟司氏の『馬鹿の壁』などに準拠しています。かなり前のベストセラーですが

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