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「やっぱり知りたい!フッサール」第一回での質問と鈴木崇志さんによる回答

多くの方にご参加いただいて大変盛況だった「やっぱり知りたい!フッサール」第一回(6/10)ですが、講座の時間内に答えきれなかった質問や質問カードに書いていただいた質問に関して、ナビゲーターの鈴木さんより回答が届きましたので、ここに転載します。

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※講座の際に感想や質問をいただき、ありがとうございました。感想については、今後の講座を進める上での参考にさせていただきます。以下では、いただいた質問について、可能なかぎりお答えしていきたいと思います。なお、質問を抜き出す都合上、皆さんからいただいた文章を一部割愛・変更させていただいた箇所がございます。ご容赦ください。(鈴木崇志)

質問(1)
①「還元」とは、つまり、経験の外に事物が存在する、経験なしに事物が存在する、という「連想」を一度括弧に入れる、中止するということと自分なりに理解しました。

②個々の事物をこれこれの物、これとこれという風に「分節化」しているのも意識の働き、とフッサールは語っていますか?


質問(1)への回答

①「連想」というのは、うまい言い方ですね。前回の講座では、私たちが日常的に行っている経験のことが「自然的経験」として特徴づけられました。フッサールは、この自然的経験を行っているときの態度のことを「自然的態度」と呼んでいます。それはまさに「態度」として身についてしまっているがゆえに、自覚されることすらなく身についてしまっているのかもしれません。そのような自然的態度のもとでは、質問の中で述べてくださったように、「経験の外に事物が存在する」「経験なしに事物が存在する」という確信が、いつのまにか抱かれています。「事物が存在する」という確信から「経験の外に/経験なしに事物が存在する」という確信へと半ば自動的に飛躍してしまうことは、確かに「連想」と呼んでもよいものかもしれませんね。
 ちなみにフッサールは、「経験の外に/経験なしに事物が存在する」ということを、伝統的な哲学の用語を使って、「事物がそれ自体で(an sich)存在する」とも言い換えています。そしてフッサールは、そのような事物の「自体存在(An-sich-sein)」が私たちの経験の対象にはならないことを強調したのでした。なぜなら、経験においては、事物は必ず特定の側面から現れる(=現象する)しかないからです。そして私たちが経験の外に出ることができない以上、結局のところ私たちは、事物の「自体存在」をそのまま掴み取ることはできないというわけです。こうしてフッサールは、自然的態度の中に深く根づいてしまった連想を一度括弧に入れる(中止する)ために現象学的還元という方法を編み出したのでした。
 よって、質問の中でまとめてくださったことは、フッサールについての正しい理解になっていると思います。
 なお、「自然的態度」から「エポケー」に至る筋道については『イデーンI』の27〜32節(渡辺二郎訳『イデーンI-I』、みすず書房、125-143頁)で述べられています。また、事物の「自体存在」の経験不可能性については、1910/11年の「現象学の根本問題」講義の14節(浜渦辰二、山口一郎監訳『間主観性の現象学:その方法』、ちくま学芸文庫、69-75頁)も参考になります。

②「分節化」というのも重要な論点であると思います。前回の講座でも紹介したように、フッサールは意識が「意味付与作用」という働きを行っていると考えています。意味付与作用というのは、要するに、与えられたもの(感覚など)を「これこれのもの」として把握する働きのことです。そしてこの働きによって、意識は、「これこれのもの」として特徴づけられた志向的対象に向かうことができるようになります。すると、質問の中で挙げてくださった「分節化」の働きは、フッサールの言葉づかいで言えば、「意味付与作用」の働きに近いと言えそうです。
 ちなみにフッサールは、意味付与作用が知覚の場面ですでに行われていると考えています。よって知覚されたものは、すでに「これこれのもの」として分節化されているというわけです。さらにいえば、知覚の場面で付与された「意味」は、それを後から言語化するときの「意味」と無関係ではありません。フッサールは、知覚などの場面での「意味」が、言葉によって表現されることによって、まさにその言葉の「意味」へと映し出されると述べています。
 とはいえ、「知覚の意味と言語の意味の関係についてのフッサールの考えが正しかったのだろうか?」あるいは「そもそも知覚の意味とは何だろうか?」と、さらなる質問を立てることも可能です。「分節化」の問題をめぐっては、まだまだ考える余地がありそうですね。
 なお、意味付与作用については、例えば『イデーンI』の85節(渡辺二郎訳『イデーンI-II』、みすず書房、91-98頁)などが参考になります。また、知覚の意味と表現の意味の関係については、同じく『イデーンI』の124〜127節(邦訳は同上、233-247頁)が重要だと思います。


質問(2)
①「私」が世界を超えているのだとすれば、フッサールによれば、「私」を認識することは不可能なのでしょうか?

②結局フッサールによれば、意識を離れては何も存在しないのでしょうか? それだとすると、フッサールとデカルトのcogitoとの違いは何でしょうか。エポケーを行ったあと、フッサールはデカルトとどう違うのでしょうか。純粋意識の中にあることと、コギトの中にあることとは何が違うのでしょうか。

③ハイデガーはフッサールの何が気に入らなかったのでしょうか?

④感覚知覚が自然の知識を正当化するという話でしたが、我々が感覚の正しさを信じる根拠はどこにあるとフッサールは考えていたのでしょうか?

質問(2)への回答

①確かにフッサールの現象学において、「私」の位置づけは難しいです。おっしゃるように、超越論的現象学の枠組みの中では「私」はある意味で世界を超えています。もちろん講座でも述べたように、還元を経たあとには、純粋意識の領野が認識可能なものとして開かれると言うことはできそうです。しかし、その場合にさらに問題になるのは、純粋意識と「私」の関係です。フッサールによれば、純粋意識というのは誰のものでもない意識ではなく、やはり「私」の意識です。しかしここに登場する「私」は、意識を統一する極であるがゆえに、それ自身が意識に内在しているわけではないとされます。そのような純粋意識の担い手としての「私」は、純粋な私、すなわち「純粋自我(das reine Ich)」とも呼ばれています。
 つまり純粋自我としての「私」は、世界をある意味で超えているだけでなく、純粋意識をもある意味で超えているのです。逆説的な言い方になってしまいますが、還元によって取り出された内在の中に、それを超越するものが含まれてしまっているのです。そのような純粋自我の特異性を表すために、フッサールは、『イデーンI』の57節(渡辺二郎訳『イデーンI-I』、みすず書房、242-246頁)において、「内在の中の超越(eine Transzendenz in der Immanenz)」という表現を用いています。この「純粋自我」については、『イデーンII』の22〜29節(立松弘孝・別所良美訳『イデーンII-I』、114-142頁)で立ち入った説明がなされ、さらに後年のフッサールの著作の中でもたびたび言及されています。もしフッサールの言うように「私」が「内在の中の超越」なのだとすれば、それを本当に認識できるかどうかは怪しいところかもしれません。しかしそれでも、フッサールは、この奇妙な「私」について何かを語ろうとしつづけていたのでした。

②フッサールは、意識から切り離された世界について語ることは無意味であると考えています。その意味においては、「意識を離れては何も存在しない」という言い方をしてもよいかもしれません。ただし重要なのは、この主張によって私たちの認識の幅が狭まるわけではないということです。前回の講座でも述べたように、フッサールは、世界の諸事物を純粋意識の志向的対象として捉え直すことにより、「世界について語ること」が、「純粋意識に志向的に内在するものについて語ること」にほかならないことを示そうとしていたのです。
 これに対してデカルトは、(少なくともフッサールの解釈によれば、)このような意識の志向性を捉えそこなっていたのだとされます。つまりデカルトは、世界の全体をコギトの志向的相関者として保存する代わりに、むしろ世界の他の諸事物から切り離されたコギトだけを語ることができるかのように考えてしまったのだ——フッサールは、このようにしたデカルトを批判しています(例えば『デカルト的省察』の10節などを参照)。
 この観点からすれば、デカルトの方法的懐疑とフッサールのエポケーの違いは、方法的懐疑が、少しでも疑わしいものを一旦は「存在しない」と見なす操作であるのに対し、エポケーは判断の差し控えであるという点にあります。つまり、「否定」するか「括弧入れ」するかの違いです。
 ただしデカルトも、方法的懐疑によって得られたコギトの中に、世界の諸事物や神についての「観念」があることを認めています。しかしその場合には、コギトの「内」にある観念の「外」に世界や神がそれ自体で存在するという考え方が採用されることになります。これに対してフッサールは、そのような「内」と「外」の区別を超えたところに、純粋意識というものを見出そうとしていたのでした。よって「コギトの中に観念がある」というデカルトの主張と、「純粋意識の中に対象が志向的に内在している」というフッサールの主張の間には、やはり違いがあるのだと思います。とはいえ、こうしたフッサールのデカルト批判が正しかったかどうかは、慎重に検討する必要がありそうですね。

③講座の中でも少しだけ触れたように、ハイデガーは1927年4月に『存在と時間』を発表し、その中でフッサールとは全く別の仕方で現象学を行おうとしています。そして二人の対立は、同年の秋に、イギリスの百科事典『ブリタニカ』の「現象学」の項目の執筆をめぐって顕在化することになります。特に、この執筆の過程でハイデガーがフッサールに送った手紙の中からは、ハイデガーがフッサールの思想のどこに不満をもっていたのかを読み取ることができそうです。少し長くなりますが、ハイデガーの手紙の一部を引用してみます。

事象上の諸困難
 あなたが「世界」と呼ぶものの意味での存在者は、それと同じ存在様式をもつ存在者に立ち戻ることによっては、その超越論的構成に関して解明されることはできない。この点については、〔私たちは〕一致しております。
 しかし、そのことによって、超越論的なものの場所を形づくっているものはおよそ存在者でない、ということが言われているわけではありません。むしろ、そのことによってまさに問題が生じてくるのです。すなわち、それのなかで「世界」が構成されてくるところの存在者の存在様式は、どのようなものであるか、という問題です。これこそが『存在と時間』の中心問題です——つまり現存在の基礎的存在論です。〔…〕
Husserliana Dokumente Bd. III/4, Briefwechsel: Freiburger Schüler, S. 146. (谷徹訳『ブリタニカ草稿』、ちくま学芸文庫、164-165頁)

ここでハイデガーは、「超越論的なものの場所を形づくっているもの」、つまり「それのなかで世界が構成されてくるところのもの」が——世界という存在者とは異なる存在様式をもっているにせよ——やはりそれ自身も「存在者(das Seiende)」であることを強調しています。そしてハイデガーは、この特別な存在者の存在様式を解明するためにはフッサールの方法(現象学的還元によって純粋意識に立ち返ること)では不十分であると考えているようです。そこでハイデガーは、「それのなかで世界が構成されてくるところの存在者」を純粋意識ではなくむしろ「現存在(Dasein)」と呼び、『存在と時間』のなかで、現存在の存在様式を解明する役割を「基礎的存在論(Fundamentalontologie)」に帰したのでした。

④感覚や知覚の正しさを信じる根拠はどこにあるのか、というのは大きな問題だと思います。ちなみにフッサール自身は、『イデーンI』の中で、知覚のことを、世界の中の対象そのものを私たちに与えてくれるような直観として特徴づけており、そのような直観こそが「認識の正当性の源泉(eine Rechtsquelle der Erkenntnis)」であると述べています。つまり、世界についての認識の正しさは全てそこから汲み出されてくるのであって、それ以上さかのぼることはできない、というわけです。
 フッサールのこのような主張を支えているのは、知覚によって与えられるのが世界の諸事物の像や記号ではなく、まさに諸事物そのものであるという確信です。
 このフッサールの確信の背景には、時間的な「今」と空間的な「ここ」を特権視するような考え方があるのかもしれません。そしてそのような考え方は、特定のパースペクティヴのもとで世界を見る「私」を重視するフッサールの現象学の方法と切っても切れない仕方で結びついているのかもしれません。「今」「ここ」で「私」が世界を知覚している——こうした事態を出発点としないような哲学が可能かどうか、さらに考えてみてもよいかもしれません。
 ちなみに、知覚の大まかな特徴づけについては『イデーンI』の第1節(渡辺二郎訳『イデーンI-I』、59-61頁)、それを「認識の正当性の源泉」とするという点については第24節(邦訳は同上、117-118頁)を参照することができます。

質問(3)
①一連のノエシス-ノエマの相関関係はとても運動的なもののように感じますが、そうなんでしょうか?

②芸術に対する価値判断を正当化するために、知覚からアプローチをしても良いように思いますが……というか、メルロ=ポンティがそれを一部行ったように思いますが、フッサールはどのように考えていたのでしょうか。

質問(3)への回答

①運動的という言葉には、多くの含意が込められていそうですね。そこで、私のほうで思いついたことを色々と書いてみます。
 確かに、ノエシス(感覚や意味付与作用)が変化すれば、ノエマ(志向的対象の有り様)の側にもそれに相関的な変化が生じることがあります。例えば、同じ人物(サルトル)が一方では「レーモン・アロンの友人」として把握されて、他方では「『存在と無』の作者」として把握されることがあるかもしれません。これは、意味付与を行う際の観点の違いです。また、対象についての認識が次第に明確になってゆく過程で、かつて「よくわからない琥珀色の飲み物」として把握されていたものが、やがて「あんずのカクテル」として把握されるようになるかもしれません。フッサールは『イデーンI』の中で、そのような観点や時点の変化をも考慮することができるような道具立てを用意しようとしています。
 さらにいえば、感覚が与えられてそれに対する把握がなされる、という場面をより詳しく見ていくと、感覚への能動的な把握がなされるに先立って、すでに受動的なレベルで感覚が取りまとめられている、と言うこともできるかもしれません。『イデーンI』より後にフッサールが取り組んだ「受動的総合」というテーマは、まさにそのことに関わっています。
 そのように考えると、能動的なレベルにおいても受動的なレベルにおいても、認識のダイナミックな過程を記述することは、たしかに現象学の課題になりそうです。

②前回の講座では立ち入ることができませんでしたが、たしかにフッサールのテクストの中にも、価値判断についての考察を見出すことができます。ただしフッサールの場合は、メルロ=ポンティとは異なり、残念ながら公刊著作の中でまとまった芸術論を展開することはありませんでした。
 ちなみにフッサールによれば、価値を受け取る働きは、「知覚(Wahrnehmung)」に近いですが、あくまで別の作用であるとされます。彼はそれを、「価値覚(Wertnehmung)」と呼んでいます。知覚が事物を「本当に(wahr)受け取る(nehmen)」働きであるのと同様に、価値覚は「価値(Wert)」を本当に「受け取る(nehmen)」働きであるというわけです。とはいえ、この価値覚の正体をめぐっては、現代でも色々な議論がなされています。なお価値覚については、『イデーンII』の第4節(立松弘孝・別所良美訳『イデーンII-I』、4-12頁)などで言及されています。
 そして質問の中で書いてくださったように、たしかに芸術に対して価値判断がなされることがあります。このとき評価されているのは、「美」という種類の価値であると考えられます。ちなみにフッサールは、ゲッティンゲン時代に行った倫理学講義の中で、「善」という価値を、評価される対象が現実に存在していることについての喜びと相関的なものとして特徴づけています。これに対して「美」の場合は、評価される対象が現実に存在しているかどうかは無関係であるとされます(Husserliana Bd, XXVIII, S. 47)。例えば、現実世界の平和と、単に頭の中で思い描かれただけの平和では、明らかに前者の方が「善い」と考えられます。これに対し美しい対象の場合は、それが現実の世界にあろうと空想の世界にあろうと、その美しさに違いがあるわけではない——そのようにフッサールは考えていたようです。
 とはいえ、美的判断についてのこうした考察はかなり形式的なものであり、そこから具体的な芸術論を展開するためには、もうワンステップが必要になりそうです。そのための足がかりをフッサールの思想のどこに見出すかは、おそらく各人の興味によって様々でありうると思います。
 

質問(4)
「還元」、ことば上では私にもできそうですが、ことばから少し離れてる状態、こうやって何か書いたり、聞いたりはしていなくて、ちょっと疲れてるときに純粋意識で世界を見るのは、慣れるまできついなあと思いました。フッサールが「書きながら考える」タイプなのが個人的にはとてもしっくりきました。現象学的還元、むずかしいというかつかれそうな作業ですが、うっかり言葉の自動化に乗っ取られちゃわないように、連想が走っちゃわないように(?)、こういう感じなのかなあと思いました。

質問(4)への回答
 
 たしかに、現象学的還元という操作の内実を言葉で理解できても、いざそれを実行しようとすると分からないことが多いですよね。フッサールは丁寧に説明しようとしてはいますが、実際のところ、彼にどのような世界が見えていたのかという点については、私もはっきりしたことは言えません。メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の序文の中で述べた「還元の最も偉大な教訓は、完全な還元など不可能だということである」という言葉を、ここで考え併せてみてもよいのかもしれません。
 質問の中で言ってくださった「ことばから少し離れてる状態」や「ちょっと疲れてるとき」にも還元が継続するかどうかは、興味深い問題だと思います。ちなみにフッサールは、還元のあとで私たちが行っていることを、一方では超越論的経験として呼んでいます。これは前回の講座でも述べたとおりです。しかし他方で、彼は、還元のあとでなされることを「反省」として特徴づけようとしてもいます。例えば『イデーンI』の77節では、「現象学的方法は、徹頭徹尾、反省という作用の中を動いていく」(渡辺二郎訳『イデーンI-II』、46頁)と述べられることにより、純粋意識の諸部分を探索するための作用が「反省」であることが強調されています。たしかに、日常的な私たちの注意は意識の作用ではなく対象に向けられています(例:美味しいご飯を食べて喜んでいるときには、私の注意は「美味しいご飯」という対象に向けられている)。しかしフッサールによれば、そのような状況においても、注意の向け換えが可能であり、意識の作用そのものを対象にすることが常に可能であるとされます(例:「美味しいご飯」からの注意の向け換えにより、それについての「喜び」という作用を対象にする)。
 したがってフッサールによれば、「純粋意識で世界を見る」ことは、反省しつつ自覚的になされるべきことであるようです。そして「反省」が「言葉」と深く関わっているのだとすれば、言葉を使わずに還元を継続することは難しいのかもしれません。だからこそフッサールは、できるかぎり言葉の世界から身を引き離さないために「書きながら考える」哲学者であろうとしたのかもしれません。たしかに、それって少し疲れそうな作業ですよね。フッサールをそのような作業へと駆り立てた動機が何だったのかという問題には、私も興味があります。


質問(5)
①現象学を理論的基盤にした心理学研究では、インタビューを分析する際に、インタビューの場にいた「私」と、その場にいた「私」をメタ的に考察する〈私〉を峻別するという作業を行います。この作業は、フッサールのいう世界の中に存在する一個体としての「私」と純粋意識の話とパラレルの関係にあるように思いました。
②また、調査者自身の体験や価値体系に関する記述も盛り込むのですが、それは、フッサール哲学のいう、ノエシスとノエマが相関関係にあるという理論をベースにしているのかなと思いました。

質問(5)への回答

①なるほど。インタビュー分析の場面でも、その場にいた「私」とそれをメタ的に考察する〈私〉の区別があるのですね。おっしゃるように、フッサールの中にもそれとパラレルな区別を見出すことができると思います。その場合は、世界の中に存在する「人間(Mensch)」あるいは「人格(Person)」としての私は、たしかに考察の対象としての「私」であると言えそうです。ただ難しいのは、純粋意識の担い手としての私(フッサールはこれを「純粋な私」、すなわち「純粋自我」と呼んでいます)が、質問の中で紹介してくださった〈私〉に対応するかどうかということです。もしかすると、そのような純粋自我もやはり——人間や人格としての「私」とはあくまで区別されるとしても——現象学的な考察の対象としての「私」なのかもしれません。では、そのように様々な相貌をとって登場する「私」をメタ的に考察する〈私〉は、フッサールの現象学においては、何者なのでしょうか? 一つのヒントとなりそうなのは、『デカルト的省察』の第15節で言及される「無関心な観察者(uninteressierter Zusachauer/ unbeteiliger Zuschauer)」です。フッサールによれば、世界の中に入り込んでいる「私」は、その都度の関心に従って生きています。しかし現象学的還元を経てそのような「私」を反省的に考察する〈私〉は、もはやそのような世界についての諸々の関心から身を引いており、それを記述することだけに関心をもっているのだとされます。フッサールはそのような〈私〉のことを、哲学者や現象学者と呼ぶこともあります。
 もちろん、インタビュー分析の場合にそのような無関心さが要求されるかどうかは、また別の話だと思います。フッサールの思想と現代の現象学的な心理学研究の違いについては、むしろ私のほうが教えを乞いたいところです。

②調査者自身の体験や価値体系というのも、重要な論点であると思います。難しいのは、インタビューの場合には少なくとも二人の人間の間でのやり取りがなされますが、フッサールが『イデーンI』で行ったノエシスとノエマの相関関係の記述は、さしあたり一人の主観の意識の内部だけに関わるということです。フッサール自身が、このノエシス/ノエマの枠組みを他者理解の場面に適用しようとしていた形跡はありますが、それが公刊著作の中で明示的に行なわれているわけではありません。私自身、この他者理解の問題に興味をもっており、第3回の講座では、それについても論じてみたいと思っています。
 また、主観の体験や価値体系が認識に及ぼす影響については、フッサールも考えていたようです。文化が異なれば対象を把握する仕方も違ってきますし、同じ文化に属する者の間でも、価値観や生活歴が違っていれば、対象の見え方や感じ方は千差万別になるでしょう。フッサールもこれに気づいており、超越論的主観が空っぽの入れ物ではなく、「習慣」や「歴史」の担い手であることを強調しています。(なお「習慣」については『デカルト的省察』第32節、「歴史」については同書第37節などが参考になります。)


質問(6)
 ハイデガーはロマン主義的とされているのを聞いたことがあるが、フッサールの現象学がもし何かの芸術に対応するとしたら、何になるのか。

質問(6)への回答
 
 フッサール自身は、残念ながら、特定の芸術分野に踏み込んだ考察を公刊著作の中で行ってはいません。とはいえ、例えば『内的時間意識の現象学』においてはメロディーの知覚の仕方を論じています。また、もともとフッサールの現象学が視覚を重視する傾向にあることを踏まえると、視覚芸術との相性もよいかもしれません。とはいえフッサール自身は、そういった議論を芸術論として展開するためではなく、むしろ知覚のさまざまな類型を記述するために行っているようです。
 また、より一般的には、「像意識(Bildbewusstsein)」をめぐる諸草稿の中では、「像(Bild)」とそれによって表現される「主題(Sujet)」の関係についての、立ち入った議論が行われています。これを手がかりにして、芸術作品のあり方についての現象学的な考察を行うことも可能かもしれません。ちなみに像意識についての草稿は、『フッサール全集』の第XXIII巻(Husserliana, Bd. XXIII)に収められています。また、『イデーンI』の100〜101節(渡辺二郎訳『イデーンI-II』、156-161頁)でも「ドレスデンの美術館の画廊」を例にしつつ、像意識について少しだけ論じられています。

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「やっぱり知りたい!フッサール」
第2回 人形と身体の現象学
は7月8日(日) 18:00-20:00です。

只今参加者募集中です!

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/014eiqzmxtgk.html


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