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自分の家から最寄りの家系がいちばんウマい

「あなたのラーメン」という特集があるらしい。そこで、「ぼくのラーメン」について考えてみる。

真っ先に思い浮かんだのは人生でいちばん杯数を食べたであろう「千家」だ。進学を機に横浜でひとり暮らしをはじめて、いちばん近くにあったラーメン屋が「千家」だった。

当時は「家系ラーメン」という概念も知らず、店の前を通ると浴びせられる強烈な湿気とにおいに顔をしかめていた。が、やがて、好奇心にひかれて入店。はじめての一杯は「思ったよりはウマいな」ぐらいの感触でしかなかった。

しかし、次第に大学生活に馴染み、友人が増えていくうちに「千家でも行くか!」と仲間と足を運ぶようになる。なにせ千家の営業時間は朝の5時まで。ああ、素晴らしきモラトリアム。バイトのあとに、二次会のあとに、徹マンのあとに。千の夜をこえて染みわたる濃厚スープ。いつしか全身の細胞は千家の成分に置き換わり、千家を求める身体になっていた。

横浜で長く暮らしていたので、あちこちの家系ラーメンを食べ歩いた。確かに吉村家はウマいし、寿々喜家、とらきち家、末廣家、中島家、杉田家、壱六家、壱八家……と、好きな家系はたくさんあった。千家より人気があるし、舌をフラットして考えてみると、どれも千家よりウマい。それでも。「自分の家から最寄りの家系がいちばんウマい」そう思えるのが、家系の魅力なのではないか。だからこそ、あんなにたくさんの家系ラーメンが横浜にあるのではないか。つまるところ、ほうれん草より、海苔より、野菜畑より、最高のトッピングは思い出なのだ。

しかし、いずれは最寄りでなくなる時がくる。千家のある保土ヶ谷区から同じ横浜市の西区に引っ越しただけで千家に通う回数は激減した。そして、最寄りの吉村家に通うようになった。遠くはないのでたまに千家にも足を運んだが、次第に薄まっていく保土ヶ谷の記憶と比例するように、千家の美味しさも薄まっていく。そして、思い出を守るように千家から距離を置くようになった。

西区の次は東京へ。正直、東京の家系はどれもニセモノにしか思えない。王道家も武道家も町田商店みたいなチェーン系も。食べてはみたが、あんなのは家系と認めない。しかし、池袋に住んだことでラーメンの幅が広がった。さすがの激戦区であったが、結果的にたくさん通ったのは「つけ麺 椿」で家系ではなかった。

しかし、原宿に引っ越すと通うほどのラーメンに出会えなくなり、東神奈川に住みはじめると、当時オープンしたばかりの「とらきち家」に通うようになった。厨房には吉村家でいつも見ていたスタッフの人が店長として汗をかいていた。開店祝いの花で彩られた店構えからポップな店だと思っていたが、中のカウンター席のつくりや卓上の調味料のラインナップ、何よりラーメンそのものが明らかに吉村家の系譜を継いでいた。そうした暖簾分けをお客さんとして共有していけるのもまた家系の魅力だろう。

次に住んだ逗子は明らかなラーメン不毛地帯で、辻堂に引っ越したときには「清水家」があった。はじめての家系に行くと、「どれ」とまずはスープを飲んでみる習慣があるのだが、その瞬間、ニュータイプのようなひらめきが走った。「これは寿々喜家ではないか」と。あとで調べてみると、やはり清水家は寿々喜家の系譜を継いでいた。自分の舌に驚きながら、かつてを思い出していた。

実は、千家の近くには寿々喜家という名店があった。寿々喜家も嫌いではなかったが、若かったぼくにはサッパリしていて通い詰めるほどではなかった。しかし、千家に通っていた頃に比べると年を重ねた今、清水家の味がドンピシャにハマったのだ。ああ、ぼくのラーメンとは「家系ラーメンそのもの」。それは大河ドラマのような遥かな時間の旅なのだ。

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