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「松濤」という言葉だけでもこんなに旅ができる。

渋谷の喧騒から逃げるように西へ西へと歩いていく。神泉を裏手に抜けると、途端に静かな高級住宅街が広がっている。「松濤」だ。

江戸時代は紀州徳川家の下屋敷があったが、明治維新が起きると鍋島家に譲渡され、無職となった武士たちが働くハローワークとしての茶園が作られた。その名前が「松濤園」。

当初は高級茶として知られたものの、静岡茶などの台頭により廃業、関東大震災をきっかけに分譲して高級住宅街となり、ハチ公の飼い主であった上野英三郎などが住むようになる。

歴史はさておき「松濤」とは何か。実は、茶釜の沸く音に由来することを知っているだろうか。

千利休は、茶の湯の音について「蚯音(きゅうおん)」「蟹眼(かいがん)」「連珠(れんじゅ)」「魚眼(ぎょがん)」「松風(しょうふう)」の5段階で表現。沸騰に近づいていく泡のかたちを表現した言葉であるが、ひとつだけ異なる言葉がある。それが「松風」だ。

「松風」は、茶にいちばん良い温度。いわゆるシュンシュンと湯が沸く音をあわらしており、それを「松林に風が抜ける音」にたとえたのだ。

日本人がすごいのはここからだ。同じ松風=松の風でも「松韻(しょういん)」「松籟(しょうらい)」「松濤(しょうとう)」などと色んな呼び名を持っていた。

まるで「エスキモーは雪をあらわす52の呼び名を持っていた」と言うかのように。52の真偽はさておき、この言葉を書いたマーガレット・アトウッドはこう言った。

“The Eskimos had fifty-two names for snow because it was important to them: there ought to be as many for love.”
エスキモーは雪をあらわす52の名前をもっていた。それが彼らにとって重要だからだ。愛にも同じ数だけ名前があるべきだ。

マーガレットはさておき、「松籟」は竹の笛のような音のこと。「松韻」はまろやかな音のこと。「松濤」の濤は、怒涛の涛。大波のように押し寄せる音のこと。

「松濤」という言葉だけでもこんなに旅ができる。

徳川家の下屋敷であった時代も、松濤園があった時代も、鍋島松濤公園の池のまわりには松の木が生えていたことだろう。松の風を聞き分けられる自信はないが、公園のベンチに座り耳を澄ませてみたいものだと思う。

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