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画文の人、太田三郎(6) ファンの声

 もともと、この連載は、ゆるゆるで調べていくプロセスも含めて書いていこうとしていたのだが、調査が進むと、もう少し深めてみようという欲が出てきて、掲載が遅れがちになる。
 現在、絵葉書を扱う回はほぼ構想が固まっているが、太田のオリジナル絵葉書が1枚しかないので、もう少し集めたいという気持が出ている。
 複製使用の許諾を得たところもあり、絵葉書の図版は複数あげることができるのだが、オリジナルを紹介したいという思いがある。
 雜誌『ハガキ文学』の回も調べは進んでいるが、これも完全を期したいというような欲が出てきて、原稿をまとめるのが遅れている。総目次を入手してから整理したいと考えている。

 ということで、今回は、雑誌『ハガキ文学』のオリジナルを何冊か読んでいて、太田三郎ファンの投稿が見つかったので、それを紹介することにする。

雑誌『ハガキ文学』

 雑誌『ハガキ文学』は日本葉書会が発行元で、明治37年10月創刊。明治43年8月に終刊するまで82冊を発行した。当時の大手出版社博文館が発行に関わっており、絵葉書ブームの中心にあった雑誌である。
 『アンティーク絵はがきの誘惑』(2007年6月27日、産経新聞出版)の序文「日本絵葉書事始」で、山田俊幸氏は『ハガキ文学』について次のように述べている。

そんな時期に日本葉書会という団体ができ、「ハガキ文学」という専門誌が出版される。これは、絵葉書という商品にこれからの市場を感じていた当時の大出版社「博文館」が設立したものだ。経営戦略的には、この『ハガキ文学』はすでにいくつか出始めていた絵葉書関連の雑誌とはいささかスタイルを変えていた。流行の絵葉書趣味というものをベースにしながらも、「はがき」というもののもつ多機能な用途をしっかりと見定め、肉筆絵葉書交換や若者たちの水彩画流行をも視野に入れ、絵葉書蒐集という趣味の世界だけではなく、はがき大に書かれる短文研究(随筆・文芸)、あるいは描かれる図案研究を取り込んだ幅広い読者を見込んだ雑誌だった。

 博文館が直接運営するのではなく日本葉書会という絵葉書愛好者のための組織を設立し、文章や水彩画、スケッチ画との連携や、読者の絵葉書交換会の組織などを含めた一種の社会活動の中心として雑誌が刊行されていたことがわかる。
 太田三郎は、『ハガキ文学』の編集に携わっていて、表紙画、口絵、コマ絵、応募画についての講評、小品文などを寄稿しており、画文の両方に表現領域を広げていた。
 明治30年代後半から大正初年にかけて、雑誌などのメディアで印刷された絵の描き手として、太田は大いに活躍しているが、雑誌『ハガキ文学』の編集に関わっていたことがその基底にある。

雑誌『少女世界』表紙画

 博文館発行の少女向けの雑誌『少女世界』第6巻第2号(明治44年1月8日)の表紙画《梅花》である。

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 コマ絵に使う鳥マークを入れずに「サムロウ」と署名している。
 太田は瞳が大きく頬が豊かな少女像を描いた。「サムロウ式」と言ってもよい様式が確立されているが、そう呼ばれたことはない。
 太田の活動が、博文館のメディアに限定されていたことが、竹久夢二のような人気を得られなかった一つの原因とみてよいだろう。
 これまで、太田について調べてきて思うのは、自分語りがあまり残っていない人だということである。
 ただ、これはわたしの調べがあまいだけで、たとえば、戦後は名古屋で愛知県美術館の設立に尽力しているので、地域メディアを地道に調べれば、記事を見出すことができる可能性はある。
 太田の伝記に触れたファンの寄稿が、『ハガキ文学』に見つかった。

ファンの声

 『ハガキ文学』第4巻第3号(明治40年3月1日発行、表紙画は橋本邦助の《花神》)の読者投稿欄「如是録」に深川住みの「唯我生」名義の読者が寄稿した「僕の想像したハガキ文学記者」という文章が掲載されている。

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 「記者諸氏の肖像を出して下さい」という要望を出したが、なかなか応じてもらえないので、勝手に記者たちの「風采」を想像して書いてみたという趣旨の文章である。
 最初に木暮理太郎、2番目に太田三郎が取り上げられている。

次に青年画家中の花形太田三郎氏、木暮氏と同年位だらうと思って居たが、洋画講義録の氏の伝記を読んで未だ素敵に若いのに驚いた 幼い時から余程世の辛酸を嘗めて来た人だと書いてあったが、氏の性格は其作品から想像するに幼時が悲惨であったに似ず非常に華やかであるらしい(或は年齢の若い為でもあるか)顔は痩せた方、髪は綺麗に分けられて居て、眼と唇とに有情しい可愛ゆい表情を持つて居る。療脳日記などがあるから神経質の人だらう。少しの事も苦にして一日飯も食はない。気に入らなければ物も云はない、と云つたやうな有様だ。『性快潤無邪気よく談ず』と書いてあったが、恐らくそれは氏の交際的半面ではなからうか?  趣味は多方面で絵画は勿論その外文学音楽何でも大好き。服装は洋服だ。子クタイの色やカラの高サは云ばずとも分つて居るだらう、ペトロザルが有るか無いか、天機洩すべからずとしておこう

 最初に取り上げられた「木暮」は木暮理太郎こぐれりたろう(1873-1944)のこと。西洋画家の伝記と絵画紹介を含む「泰西名匠伝」を『ハガキ文学』に連載しており、それをもとに『泰西名画鑑』(明治41年3月3日)が太田三郎の装丁で日本葉書会から刊行されている。木暮はのちに山岳文学の書き手として名を知られるようになった。
 太田は、時期によって、記者から誌友的な位置に変化した可能性があるが、長く『ハガキ文学』の編集に関わっている。明治40年には、太田は読者に明確に「記者」と認識されていたことがわかる。

『洋画講義録』

「唯我生」の太田についての記述は想像で書かれているとはいえ、伝記の典拠が示されていて興味をそそる。

 伝記的記述が『洋画講義録』という本に掲載されているらしい。明治30年代は、諸種の講義録が刊行されたが、その全容を知ることは難しい。講義録のコレクションを持つ図書館がないからである。
 現存する出版社新潮社の前身である新声社は、大日本文章学会を組織して、若い人向けの作文や文学独習のための多くの講義録を刊行したのが始まりであった。

 さて、『洋画講義録』であるが、国会図書館には架蔵はない。CINIIの図書検索で京都工芸繊維大学図書館が大日本絵画講習会刊行の, 第3期第1号から3号の3冊を架蔵していることがわかった。刊行年時は1907年10月以降と表示されている。

 『ハガキ文学』第4巻第1号(明治40年1月1日)に大日本絵画講習会の広告が出ている。広告は、次のようなもの(トリミングあり)である。

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 大家の講義が収録されていることがわかるが、太田三郎は明治40年には23歳で文展の入選歴もないまだ駆け出しの画家である。太田は「大家」とはいえないので、「執筆画伯」に加われたかどうかはわからない。
 ただ、スケッチ画やペン画、鉛筆画の描き方について記している可能性はあるだろう。若くても、『ハガキ文学』の誌上で活躍しており経験が豊富だからである。
 第1期、第2期の『洋画講義録』の内容は不明である。大日本絵画講習会もどのような組織であるかわからない。ただ、大正昭和期に『新撰懐中書画便覧』などを刊行していた。
 広告によれば、『洋画講義録』は月刊であったようなので刊行冊数は多かったはずだが、古書市で掘り出すことができるだろうか。

ペトロザル?

 とにかく「唯我生」の言うとおりなら、『洋画講義録』の明治40年2月あたりまでの号(おそらく第1期か第2期)に、太田三郎の伝記を含む文章が掲載されたことになる。しかし、架蔵する図書館はなく今のところお手上げ状態ということになる。
 「唯我生」が言う『療脳日記』は『ハガキ文学』掲載らしい。今のところ『ハガキ文学』の総目次が手元にないので、確認できていない。
 「唯我生」の言うところはまったくの空想ではなく、かなり当たっているところがあるように思う。

 最後の「ペトロザルが有るか無いか、天機洩すべからずとしておこう」という一節の「ペトロザル」はおそらく「恋人」のことかと推測していたが、何語かさっぱりわからない。
 試しに次世代デジタルライブラリーで検索すると、一件引っかかった。
 「関係かんけいいたなんだ? 貴様きさま婚約者ペトロザルぢやないか。」という、小杉天外の『コブシ 後編』(明治41年7月15日、章光閣)の一節である。
 「婚約者」という意味らしく、予想はそれほどはずれていなかったが、何語由来の外来語なのかはまだわからない。(この項続く)


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