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太田三郎の絵葉書 新収品から

 新たに太田三郎の絵葉書を入手したので紹介しよう。
 使用済みのものであるが、花をモチーフにしたシリーズの1つであろうか。

 花をモチーフにした絵葉書は、過去記事《絵葉書作者として:画文の人、太田三郎 (9)》で何枚か紹介した。


1 「郵便はがき」という表記について

 今回紹介するものは、スミレを描いたものと推定される。 

 発行は日本葉書会である。宛名面に「日本葉書会製」とある。
 
 葉を省略してスミレの花をのみ描いたものだろう。花の青紫色は褪色してしまっている。

 宛名面を見ておこう。宛先は隠しておくことにする。

 ふるさと宇和島を離れて東京で暮らしている「KD生」が、故郷の友人にあてて出したものである。

 「郵便はがき」となっているが、明治期は「郵便はかき」と濁らずに書くのが一般的であった。昭和8年の郵便法改正で、絵葉書の表記が「郵便はかき」から「郵便はがき」に変更になったという。
 拙ブログの過去記事《「郵便はかき」と「郵便はがき」》で取りあげたことがある。

 しかし、切手の上の消印を見ると「38−8−28」と読めるので、明治38年であると推測される。

 太田三郎の花シリーズの絵葉書はすべて「郵便はがき」となっていて、明治期にも「はかき」としない例外があったことがわかる。
 
 消印が2つあるが、上のものが宇和島の郵便局に届いたときのもの(38年8月31日か)、下のものが東京の某所(かすれて判読できない)で受け付けられたとき(38年8月28日)のものであろう。東京ー宇和島間が3日で届いていることがわかる。

2 通信文を読むー星菫派と登山

 判読できない箇所もあるが、通信文を読んでみよう。

 菫よ!星よ!で凸助共がうなる江戸より
  勝ちやん大分御無沙汰して失敬
  御江戸は暑中休暇に居るのは嫌だよ
  僕等は先に甲斐に行き白峰北岳に登
  つて愉快だつたよ飛騨の高山や甲州の八岳で
  は凍死した人も居たが僕は未(引用者付記-読みは「まだ」)生きてるよ
  夫れでももし死んでも東京の星や菫党より
  は山に登つて死んだ□□□□□情よせるよ(引用者付記-以下判読できず)
  東京の奴は意気(引用者付記-ふりかな読めず)がないよもーいやになつちやつた
  宇和島が恋□し慕し(引用者付記-以下判読できず)

 少し解説しておこう。
 「星よ!菫よ!」は「星菫派」といって、与謝野鉄幹、晶子夫妻の雑誌『明星』の詩歌の影響を受けた人たちのことを意識した表現である。
 金沢庄二郎編『辞林』(明治40年4月、三省堂)では、「星菫派」は「星(ホシ)若しくは菫(スミレ)を表識とし好んで恋愛に関する事柄を咏ずる新派詩人の通称」と解説されている。

 この葉書の差出人「KD生」は、「暑中休暇」と書かれていることから学生だとおもわれる。おもしろいのは、「星や菫党」に同じないと書いておきながら、日本葉書会発行のスミレとハートを図案とする絵葉書を使用しているという点である。
 すなわち、星菫派を批判しつつ、星菫派趣味に染まっているというわけである。

 「でこ助」とは、人を罵っていう言葉であり、差出人は星菫派とは一線を画していることを示している。

 「星や菫党」は、恋愛の詩歌におぼれる軟派であり、差出人は時に凍死することもある登山をそれに対比しているといえるだろう。

 「白峰北岳」は「しらねきただけ」と読むのであろう。「白峰」は「白根」とも書き、白根山は南アルプスの赤石山脈北部の三峰、北岳、間ノ岳、農鳥岳の総称である。
 
 以前に指摘したが、金、銀の使用は、日露戦役紀念絵葉書に端を発している。
 金は褪色しやすいが、銀はいまでも光沢を保っているものが多い。

 太田のこの絵葉書は、紙面に対して図案の占める割合を小さく抑えて、通信文がたくさん書けるように配慮したものであろうか。
 セットで絵葉書を購入すると、図案の占める割合の大きなものと、そうでないものが組み合わされていたのかもしれない。

【付記】
2023/07/16
ある方より、通信文の判読できない部分について、読み方の提案があったので紹介する。「死んだ□□□□□情」のところは「死んだ奴なんか同情」ではないかという指摘、また、「意気」のルビは「イクジ」ではないかという指摘をいただいた。ご指摘に感謝したい。


*ご一読くださりありがとうございました。


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