このままだといつまでも書かないつもりなので「百年」についてのテキスト①

一年前に失格ZINE05を5月に出版するといったものの、忙しさにかまけて白目になっていたので、こちらで連載形式にしてモチベーションを上げていこうという魂胆です。

百年とは何か?

このテーマを伝えたとき、多くの人にはきょとんとされた記憶がある。わたし自身もなぜこのようなテーマにしたのかにわかに思い出すことができないが、その時わたしのずいぶん昔の先祖について調べていたから、それがひとつの要因かもしれない。コロナ禍中に思いつきで先祖について調べ始めて、関連書籍などを拾い集めて読んでいた。おそらくその時に、過去を調べることそれ自体について考えていたのだろう。

そのときわたしはケア理論のひとつの、ナラティブメディスンについて調べていた時期と被っていたから、自らの出自を大きな時間軸の射程で語ることはいかなることか、といったふうに捉えていたのだが、ふと他の人にとっての百年とはいかなるものなのか、興味が沸き始めたことが多分始まりだったと思う。

いない時をいかに語るか

百年といえば、それはもう公共的な歴史を語るもの、というとして考えられているだろうが、それを身体が存在しうる時間を超えた射程を、個人の語りの中に落とし込んだとき、どのようなものが返ってくるのだろう?というのがこのテーマの始まりだったような気がする。

いわゆる公共的な「歴史」というものは「第二次世界大戦は1939年に始まった。」というようなものであるが、そういった大きな「歴史」の事実をいくら知っているとしても、戦争を肯定する様なことを言ってしまったり、歴史の過ちを擁護・肯定する「歴史修正主義」という主義のかたちも存在している。そういった問題はなぜ起きてしまうのか、そのことを身体と語り、またかろうじて手の届く百年の語りから考えてみようかな、と思った次第です。

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