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このままだといつまでも書かないつもりなので「百年」についてのテキスト②

語りの臨界点

コロナ禍、あるいはコロナ禍を経て、あるいはそれ以前から、リモートで会話する手段や、場所を介さないデジタルなシステムが登場すると、人と人が空間を介して存在し、あるいは話すことの重要性のようなものを説かれる場面が多い印象にある。それは例えば書店であったり、映画館であったり、日々の雑談であったり様々なことが言われているのであろうが。

あらゆるものが非場所と場所性というトピックスから語られていたが、そういった面から考えると「百年」という年月は、人間の寿命がやってくるおおよその月日であり、それはつまり人間が身体を否が応でも失ってしまうおおよその月日である。ここでいう身体というものは何も実物のカラダそのもののことではなく、その人間が動き、自己あるいは他者や世界に影響を与えていくといった意味の身体を指している。

そういった意味において「語り」にも身体というものは当然のことながら伴う。視線の動き、手の角度、呼吸、姿勢、発声、声の抑揚、話の脱線、語られる場所。それら全てが複合的に重なり合って、ある種、語りの主体自身も想像しなかったものとなる場合もある。つまり当事者と呼ばれるような「語りの身体」とでもいうべきものの寿命、というか猶予というものは、百年程度が限界なのである。江戸幕府が江戸を統治していた時代の実体験の語りを今は聞くことができないように、やがて世界大戦の語りを聞くことはできなくなるし、平成のTMネットワークやシノラーブームの語りも失われていく。しかしわたしたちは語りが繋がれる限りにおいて、ペリーが襲来したことや、ヨーロッパで市民革命があったことなどを知ることができる。

人類は語りの身体を失い続けるが、その語りを伝え、語り継ぐなどをして歴史を紡いできてもいる。これはいわゆる「伝承」と呼ばれるものであるだろう。書物、石碑、彫刻、神話、物語、絵画、演劇、写真、映像。

しかしやはり先ほどから言う、実際に見て体験した人間の「語りの身体」は、必ず失われ、それに例外はない。つまり今回のテーマである「百年の語り」とは、当事者としての身体的語りの不可能性を端的に示している、と後から気がついた。

であるから、人類は当事者、あるいはそれを見聞きした者が、様々な手段を用いて文化や出来事を伝承してきたわけであるが、ここでひとつの問題、というか、歴史的な「伝承」と呼ぶべき行為が手の届かないことが生じる。それは語るるに足らないようなこと、小さな声や、伝承の必要がないと判断されたものは、忘却されてしまうということにある、ような気がしないでもない。

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