このままだといつまでも書かないつもりなので「百年」にまつわるテキスト④

前回は、人の語りにおける「百年」とは、当事者の語りができなくなるおおよその年月であることと、考えた。

「当事者の語り」が不能となったとき、人はいかに語りうるか、その時、身体はいかなるものになりうるか、ということについて考えていこうと思います。

・非当事者の語り
・非当事者の語りの身体

この2点を語る上で補助線となる作品がある。それはたかはしそうた監督『移動する記憶装置展』です。『移動する記憶装置展』は横浜の郊外の町に芸術家がやってきて、町民に町の思い出などを話してもらう姿をえんえんと撮影し続ける映画です。みるに、実際の町民に話を聞いている「当事者の語り」の様子が伺えます。そしてその後、インタビューを行っていた芸術家は、録音した音声をヘッドホンで再生しながら、その語り、身体の動きを、そっくりそのまま模倣を始めます。

これは「非当事者の語り」というよりか、語りにも昇華されていない「非当事者の語りの模倣」と呼ぶことができます。「非当事者の語りの模倣」をする芸術家は、当たり前ではあるがとても奇妙に映し出される。身体はどこかに行ってしまったような不思議な違和。映画は最もシンプルな事実を伝えている。実際に体験したものの語りと、実際に体験していないものの語り、その違い、そのことはわかるのだが、そのときの身体的なよそよそしさ。その語り、ことばには「身体」が伴うという事実だ。

本作は歴史のこの「代理的」な存在を徹底的につきつめていきます。その語りは芸術家から、また別の女性アーティストに渡されます。彼女は、先程まで撮影していた町民のインタビューをそっくりそのまま模倣を始め、カメラで撮影され、その映像を確認する。その誰かに身体を乗っ取られたような身体を見る。映画はそれだけで終わらない。その模倣を繰り返していくうちに、模倣者が解釈した、声の抑揚や感情のようなものが、上乗せされていく、いわば語りの身体を獲得していく過程を見ることができる。

「誰かの声が自分の中に入ってきたとき、何か自分の中で変化はありますか」

思い返してもみたら、芸術家とアーティストの女性に模倣される、上飯田に住む女性の語り、もそもそもは演じられる女性に与えられた「非当事者の語り」であるのだ。わたしたちは語りのリレーのようなものを見ることで、演じること、語ることは、そもそも、何かを伝える行為、情報を別の場所に輸送する行為に他ならない。ということに気付かされるのだ。

さて本章では、以下のような前置きで始まった。「当事者の語り」が不能となったとき、人はいかに語りうるか、その時、身体はいかなるものになりうるか。この作品を通して、語りと呼ばれるものには、純粋な事実としての「情報」と、それが語られる、または非当事者によって語られる、または演じられることは、その「情報」にのらない、非言語化できないものを伝えている、ということがわかる。そしてその、非言語化できない部分は、芸術行為によって、リレーのようにバトンを渡し続けてきたのではないだろうか、ということだ。

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