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見てしまったものへの応答2023/08/11

昨日みたもの①

総武線、四ツ谷駅、ちょうどエスカレーター前に車両が止まる。ホームの人々が上へ上がる。電車に乗る人が下へ下がる。どうしても今の電車に乗り込みたい男性が、ゆっくり下がる人々を追い越し、車内に乗り込んできた。電車が動き出し、エスカレーターの見える景色は左側へ遠ざかっていく。上下の運動は遭遇することあまりがない分、見ごたえがある。

昨日みたもの②

停車中の電車の車中、紙袋を少し上に上げふらふらとホームに出る中年もしくは初老の男性。電車が進む方向をまっすぐ見据え「お姉さーん」と声を上げる。女性が紙袋を忘れたようで、男性はその呼びかけで、女性が気づいたと判断したのか、それとも電車に戻ろうか女性を追いかけようか葛藤しているのか、停止したまま動かない。

ぜひとも電車が動き出す前にお姉さんが気づいてくれたら、男性も車中に戻れるのだが、もう遠ざかっている時点で気づいていないのでは?いっそ私が表にでてふたりで叫んだらどうだろうとも考えたが、周りを見回し、それもおっくうだと見守る。車中の人々も彼の姿を見つめ同じことを考えていたのか、時間が停止したような空気がながれる。わたしたちはもはやこの出来事の観客になっている。

結局男性は車中には戻らず前に歩き出す。「前に歩き出す」ことが、これほどまで男性の「決意」と結実した場面というものは見たことがない、あまりにもベタすぎてミスチル歌えない。

電車はゆっくりと動き出し、紙袋を持ちゆっくり歩く男性を抜き去っていく。見てしまったものはそれに応答せねばならず、またそれを見てしまったものは、それを見届けるしかない。日常に『スパイの妻』みたいな出来事が転がっているとは。

『スパイの妻』公開当時、観たその足でbarへいったとき、たまたま居合わせた映画を敬愛する〇〇さんに「観てしまったものへの応答の映画」とかなんとか言われたことを、今さら、というか、ふと思い出してしまった。

さっきは「見てしまうこと」を特別なことのように書いたが、現実は「見てしまった」「知ってしまった」ことの連続のなかであり、むしれあらゆる人が、十分すぎるほど、見てしまっている。それでも見ること(あるいは学ぶこと)を続けることが、なにものかの応答になることと信じ、「信じ」というのもニュアンスが違う、応答にもならないかもしれないが、それを続けることしか残されていないのではないか、とも思う。

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昨日ではないがいつか書きたい記録

友達とコメダ珈琲で待ち合わせしているひとりの女性Aの様子。Bと落ち合い、Aが別れたあと、ひとりになる女性Bの様子、それぞれのひとりの様子をわたしは見ていた。

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