このままだといつでも書かないつもりなので「百年」についてのテキスト③
②において、百年の語りの不可能性だとか、失われていくことばなどと、偉そうなことをいったものの、そもそもわたし自身、今現在残されている百年前のことばに、まったくアクセスしていませんでした。ということで、というわけではありませんが、むしろその思考に至ったプロセスは逆で、本屋に行って『関東大震災 文豪たちの証言』と言う本があったので買って読んでみてから、今現在残されている百年前のことばに、まったくアクセスしていなかったなあ、と反省した次第であります。
本書では百年前の文豪たちが、まるで目の前で語っているかのように、素晴らしいことばで体験を語っていました。ああそうか、文学というものは、テキストそれ自体に、作者の身体性のようなものを付与するような営みであった、と今更ながら気づき始めていました。
しかし中でも傑作だったのが、林芙美子であります。わたしの住む落合には『放浪記』などを書いた林芙美子がいたものですから、『関東大震災 文豪たちの証言』の中にその名前を探したのですが、見当たらず、しょうがなく『放浪記』をセットで購入したのであります。そこには大震災の緊迫感はなく、道で野宿していた学生に、傘を与えてやって、その青年が「地震って最高だなあ」などと呟いていた。と言うエッセイでした。
この態度は東日本大震災を経験したわたしたちからしても、すごいなあと言う気持ちを感じざるをえません。東日本大震災時、自粛に次ぐ自粛で、お笑いライブをするべきでないのでは、と言う声も聞こえてきたほどです。林芙美子、文壇では相当嫌われていた、などと100分de名著には記されてしましたが、それもこの文章のを読むとなんとなくわかる気持ちもあります。
と言うことで、百年は物質的身体を伴った、今こことしての語りの限界ではありますが、記録として語りにアクセスすることはできると言うことです。
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