このままだといつまでも書かないつもりなので「百年」にまつわるテキスト⑤

今までのまとめ

今まで「百年」というものを、とりとめもなく書いてきたが、見返してみると、本当にまとまりがなく、どうしようもない思いにかられるが、そのどうしようもなさも引き受けつつ、書くことを続けて行きたく思う。

まずなぜ「百年」か、ということなのであるが、歴史的な出来事に対しての教訓、2度と起こさないという全人類的な自戒、というものは「当事者の語り」によって支えられていることは言うまでもない。

実際にその体験をした「当事者」は、論理では想像もしえない、さまざまな波及やディティールを知っている。またそれが当事者から語られる際の、声の抑揚、目の動き、体の強ばりは、聞くものの想像力を助ける。

歴史的な失敗というものは「当事者の語り」によって次の世代にバトンを預けられる。そのタイミングが、肉体的な死が訪れるおおよその年月、百年ではなかろうか。というのが今回のスタートであった。

これはいわゆる「言語伝承」と呼ばれる行為であるが、いやいや現代において語りを介さずとも、現実の出来事を記録することもできるではないか、と思うかもしれない。

確かに、江戸時代とは違い現代は、音声、映像、統計情報として記録し、未来に残すことが可能である。しかしわたしは情報の記録に関して、注意しなければいけないと思うことがいくつかある。それは

・書き換えられてしまう、あるいは恣意的に切り取られてしまう可能性。
・記録したものしか残らない限定性。

大きく分けてこの2点の問題があると思っている。まず「書き換えられてしまう、あるいは恣意的に切り取られてしまう可能性。」であるが、これは書いたママの通り、現在の政治にとって不利益となる情報を隠し、過去を恣意的に認識させようとする動きである。歴史と呼ばれる大きな流れも、記録物には常にそういった危険をはらんでいる。

また記録は、至極当たり前ではあるが「記録したものしか残らない」。しかしその出来事を理解するためには、普通だったら記録しない些細な事実の中に、その時の真実や空気を読むきっかけがあったりする。

ここで今一度、このテキストが書かれる目的について振り返りたい。わたしは単なる自己表現のひとつとしてこれを記しているわけではない。「百年」を通して、少しでも過去への認識や、未来へ残せるものが、人々に再意識化してほしいという思いで記している。

そういった意味で「当事者の語りが失われるおおよその年月が訪れたとき、わたしたちはどのようにそれを伝承していくか」という問いとなるだろう。

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