2024-1928 東中野の土地を振り返る②
現在の上落合16丁目に「全日本無産者芸術連盟」があり、機関誌の「ナップ」などが編集されていたと言われている。
現在そのあたりには「とんかつたかはし」などがあり、少し歩いたところにはクラフトビールを製造する「ハニカム&ホップワークス」がある。
「無産者」とは、無産階級に属する人。プロレタリア文学の中で頻繁に使われた。1910年代後半から、のちに〈大正労働文学〉という位置づけをされる現場での労働体験をもつ一群の作家たちを指す。
1924年、雑誌『文芸戦線』が創刊、新しいプロレタリア文学の中心的な雑誌となる。同時にこの時期、社会民主主義系と共産主義系との対立が政治分野であらわれ、さまざま組織に分裂し、この事態は打開が目指されたが統一は叶わなかった。
そんな中、1928年3月15日に、マルクス主義を忠実に実践するため日本共産党等の活動員数千名を検束、検挙された者が約300名、治安維持法に問われ刑務所に収用された。
マルクス主義とはカール・マルクスによって展開された思想を支持する社会思想の一つ。
1928年3月、「日本プロレタリア芸術連盟」と「前衛芸術家同盟」は合体し、『戦旗』を機関誌にした全日本無産者芸術連盟(Nippona Artista Proleta Federacio、NAPF、ナップ)を結成した。
メンバーの小林多喜二は「一九二八年三月十五日」「蟹工船」を、徳永直は「太陽のない街」を連載し、『戦旗』をプロレタリア文学の代表的な雑誌とした。
『戦旗』では、文学を社会運動の場にひろげるために〈壁小説〉という工場の壁に貼ったり、ビラにして配布できる掌編小説の形式を提唱もした。
ナップは、演劇、映画、芸術などさまざまなジャンルとの交流を図った。
そんな中年々、治安維持法と特別高等警察による社会主義、共産主義的思想の弾圧は厳しくなっていく。
1933年に小林多喜二が築地警察署で獄死し、共産党員が続々と転向する中、プロレタリア文学も徐々に衰退していった。
中井に住居を構えた林芙美子は政府御用達の作家となり、中井に住み続けた。
そのため、1928年から32年の少ない間、落合から東中野へ向かう区検通りは「プロレタリア通り」と呼ばれた。
参考
落合を学問としているこちらのブログを参考に執筆しました。
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