それはハードディスクの類の何かですか? —映画『移動する記憶装置展』のこと—

たかはしそうた監督『移動する記憶装置展』を鑑賞しました。こちらの作品は東京藝術大学映像研究科17期修了作品のひとつです。

物語は、横浜市泉区上飯田町、アーティスト谷繁がこの町のスペースを利用して作品を展示するために、町民に土地の記憶や思い出をヒアリングすることから始まる。

谷繁はその後、発言者と同じ場所、同じ動きで、そっくりそのまま発話を繰り返すことをしていた。以後この行為を「語りの模倣」と呼ぼう。その後展示準備から期間中の間だけルームシェアしている女性に「語りの模倣」を行ってもらい、谷繁は撮影に回る。

彼女は、町民から語られた町の記憶を、そっくりそのまま「模倣」していく、というストーリーである。

と説明されても、なんのことだかさっぱりだと思う。まず町民から聞き出された土地の思い出や記憶は「オーラルヒストリー」と呼ばれるものだろう。オーラルヒストリーとは、語り手が個々の記憶に基づいて口述した歴史のことを指す。つまり記録文書などに記述されていない極めてパーソナルな記憶を、幾つも記録することで、重層的にその土地を理解しようという試みである。

語りは、言葉の抑揚、身振り、声のトーン、視線の向き、様々な要素によって成り立っている。「語りの模倣」は、それらを一度放棄して、模倣者があらためて構築する行為である。

さて、果たしてこの行為にどういった意図があるのだろう?語りの聴取者として語るのではなく、あくまで語りそれ自体を模倣する行為、それは「演技」という行為に類似している、といえないだろうか。

作中で谷繁は「語りの模倣」を行う女性に「他人の語りが自分の体を通ることで、何か心境の変化などはあありませんか?」と問いかける。そして彼女は「語りの模倣」を行う自分自身の映像を観察する。そして「移動する記憶装置展」でも彼女の「語りの模倣」がスクリーンに映し出される。

果たしてこれはなんであろうか?

まずひとつ、オーラルヒストリーとは当事者によって語られることであり、それを別の人が当事者のように語ることは、偽りとも呼べることである。

しかし「語りの模倣」を見続けているうちに、何か不明な、別のものがあらわれているような感覚が生まれる。これは「模倣者」や「演技」とも違う、さらには映画内の俳優としての「演技」を超えた、ある種「交霊」めいたものの存在を感じ始めるのだ。

わたしは当初、劇中で行われる「語りの模倣」という行為を「経験的発話」は「当事者の身体」が伴う相補関係を示すもの程度に考えていた。しかしその関係を超えた別のものがそこには映し出されていた。それは観た人には心当たりがあるのではないだろうか。

物語の佳境に差し掛かった時、多くの観客に「移動する記憶装置」というものが何なのか、分かる瞬間が訪れる。それは「記憶のモニュメント」と呼ぶに相応しい装置であるのだが、それがかつてなぜ人々に愛され、大切にされてきたか、そうだったのか!といった具合に感覚的に、分かってしまう。ある種はちゃめちゃな言葉を使ってしまえば、身体への交霊から、

・物体への交霊

とも呼ぶようなものが行われる。さて、なぜあの「記憶装置」は移動しなければいけないのか、それは民俗学の任せるところであるが、移動することを目的に作られたものは、わたしたちを、わたしたちの身体を駆使して、移動することに駆り立てる。


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