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2024.6.22

出町座で二度目の『悪は存在しない』を観た。ラスト以外の印象は前と変わらず。何をどの視点で見るかの取捨選択が積み重なった映画。登場人物も、カメラも、鑑賞者も、等しく選択を迫られる。
ラストシーンは、手負いの鹿(花)の親(巧)が人間(高橋)を襲ったということか。鹿の銃痕と花の鼻血が、同じ小さな円形だったので、そう考えて間違いないと思う。だとしたら、巧の鹿性がやおら現れたのは、どう意味なのだろう。ほんで、ラストショットで聴こえるのは誰の息なんだろう。最初に観た時は高橋だと思ったけど、巧なんかな。巧が息絶え絶えになっているのが、どうしても想像したくない。やっぱり高橋であってほしい。
五所純子さんと北小路さんのアフタートークは濃密で、90分くらいあった。北小路さんはタイトルについては議論したくなさそうだったけど、五所さんと田中さんによるタイトルの話で少し腑に落ちた。映画のオープニングにも出てくる英題は、"悪"が"EVIL"に対応しており、対義語は"SAINT"になる。つまり、善悪の"悪"ではなく、聖悪の"悪"の存在に言及している。"善"か否かと考えている時点で全く的外れなのに、私も含めて、善悪で考えてしまっている人が多い気がする。"聖"の存在について考えると、ラストの巧=鹿のシーンになんとなく合点がいく。
考えれば考えるほど巧の存在が不思議。毎日のルーティンであるお迎えをなぜ忘れ続けるのか。北小路さんがおっしゃっていたように、半分夢を見ている状態という考え方もしっくりくる。半人間みたいな幻想的な存在なのかも。それに対して、高橋は都会の中堅サラリーマンの標準モデルみたいなやつだなとつくづく思うが、その"俗"っぽさこそ"聖"の反対にあるとも言える。"悪"ではなく"俗"。ラストで高橋が死んだかどうかは、本当にどっちでもよくて、"俗"が"聖"に圧倒されたということだけに意味がある。
お二人のトークでは、高橋は殺されて、ラストショットは巧目線という前提で話されていたけど、そう捉えている人が多いのかな。どちらも決定的なショットはなかったと思う。私も勝手に思い込みで答えを決めつけている部分があるかもしれない。
カメラポジションの議論を聴くたびに、おかわさび、鹿の死骸、車の後方については取り上げられるのに、頭の上(本来、人間の目はついていない)が見落とされがちなのが不服。私はそこに一番びっくりした。
北小路さんがお話しされていた、Vシネを撮りまくっていた黒沢清との比較は面白かった。

廣瀬純さんのPodcastを聴いて気になっていた説明会での男性の声、全く東出昌大の声と似てへんやん。
濱口さんが公務員の映画を撮ったら面白そう。観てみたい。

宵闇、雨上がりの鴨川デルタ。橋の上に子どもの雨靴が揃えて置いてあった。忘れ物かな。ここが屋上で、置いてあるのが大人の革靴だったら、全然違うように見えるな。
最近できたニュー百万遍に寄ってみた。親玉は別でいるのだろうけど、学生による学生のための居酒屋って感じで良い空気感。アルバイトの学生とお客の学生との会話が弾む自由な場所になってほしい。ハムカツが柔らかい。

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