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2023.7.20

中山夏月姫さんの誕生日なのに、全然ファンらしいことをしていない。私、やっぱり飽き性だわ。今の私は何のファンでもない。
最近「推し」という言葉が以前に増して巷に溢れていて、辟易する。うっとうしい。どうもこの言葉が嫌いで、何でやろうと考えた。
「△△は〇〇のオタク」「△△は〇〇のファン」と「△△の推しは〇〇」の違い。△△には支持者、〇〇にはコンテンツが当てはめられる。「オタク」や「ファン」はコンテンツが連体修飾語になるのに対し、「推し」は支持者が連体修飾語になる。つまり「推し」は、コンテンツではなく支持者主体の名詞。(ただし、「〇〇推し」と使用されるときは、コンテンツが主体になる。この使用法なら私も嫌いじゃない。)
一人一人の好きなものを認めていこうという現代の風潮に、「推し」という言葉はすごく合っていると思う。だけど、私には合わない。私は、何かを好きになるときに、自分じゃなくてコンテンツが主体であってほしい。コンテンツそのものが軽視されると、なんでもありになってしまって、そのコンテンツが弱体化する。そんなの耐えられない。
「推し」という言葉を平気で使う人は、国語が苦手な人か、自己アピールがしたい人か、なんでもいいから何かを好きになりたい人。そういう人たちを否定する気はないけど、〇〇がいいから結果的に好きにならざるを得なかった、というのが純粋で素直な楽しみ方だと思う。その楽しみ方に水を差すのだけは、勘弁してほしい。もし、今後「推し」は何かと聞かれる機会があれば、いませんと一生答え続ける所存。自分の好きなことには、誇りと品格を持っていたい。

出町座で『私、オルガ・ヘプナロヴァー』を観た。オルガ役の女優さん、眼力がすごい。自分の行動に対する意志の強さで破裂しそう。個人史的な話だったけど、もう少しチェコスロバキアの社会背景と絡めてほしかった。

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