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私と光栄ゲームパラダイス(13)

1993年光栄ゲームパラダイス創刊の時から続く、4年ちょっとの素人作品投稿の日々。

門外漢からスタートしたが、ちりも積もればなんとやらか、作品の採用率も徐々に上り、ついには交流会(今でいうオフ会)というリアルな場で「ファンです」と告白されたりしまったり。

いやた、嬉しいのなんの、天にも昇る気持ちになった。

幸い、我が身の丈は把握してたつもりなので、それらをさっ引いて、世の中がそんなに簡単なわけはないと、話半分の受け止めに努めた。

それでも残りの半量を受け止めただけで、十二分にオーバーキルの致死量だった。学業そっちのけにより拍車がかかり、時間があれば投稿、なければ作って投稿、時には図書館へ投稿のネタ探しに通い詰めるという、ねじれた生活。

結論だけ言えば、この頃のただれた生活が、後年において多少なりともネガティブな影響を与えた事は否定できないのだけど、もしタイムスリップやタイムリープしても、迷わず全力で同じ行程をたどるであろう事は、胸を張って断言できるのである。(色々反省はしてます笑)

(作品の質はまだまだ弱火、でもそれが逆に良かった気もします)
(文章投稿も、調べた資料の丸パクリ。引用元くらい書きなさいよ…)
(「史上最安値」の所でさりげなく光栄をディスってます)

その後も、交流会などに出るたびに、自分を認知している方々に出会い、知られる事の快感にイヒイヒしつつ、いやいや勘違いすんじゃねーぞ、というセルフ突っ込みを交互に繰り返す、飴と鞭な日々。

そんな折1997年2月、ついに光栄(現コーエーテクモ)初の対戦格闘ゲーム『三國無双』が発売された。

(1997年2月28日初代『三國無双』発売)
(『三國無双』イメージソングを歌うのは細野晴臣プロデュースの中華系アイドル)

元々対戦格闘ゲームが大好きで、しかも三国志の格ゲーときたらハマらないわけはなく、ひたすら『三國無双』三昧の日々に突入。

その影響で、投稿の勢いも若干薄まっていたかもしれない。

そんな折、『三國無双』発売記念企画として、全国のゲームショップ(当時はゲームソフト専門店が全国各地に山ほど存在したのだ)で、光栄肝入りのゲーム大会が行われた。勿論参加した。地元のショップでは5~6人が参加したと思う。

(三國無双ゲーム大会開催店のリスト。今はほとんどのお店が存在しないのだろうな…)

トーナメント方式で戦う事3戦。見事優勝して非売品グッズをゲットしたのだった。

少人数参加だったとはいえ、やはり優勝は嬉しいものだ。

(大会商品のステッカー、下敷き、リストバンド)

その後も『三國無双』プレイの研鑽は続く。攻略本に載らなかったバグ技や隠し技なども見つけて、都度投稿した。だが多くは載らなかった。紹介方法が拙かったか、大人の事情だったのかも。(主にバグ技だったしな)

そんなある日、月刊DaGama誌上にて、編集部見学会、そして『三國無双』編集部大会開催決定の報が発表された。おお、これはなんとか参加せねばな!

妙な使命感とともに応募した抽選に見事当選し、なけなしの貯金をはたいて新幹線で横浜に向かった。人生初となる関東への遠征にちょっと緊張しながら、目指すは我らが梁山泊、月刊DaGama編集部。

そこで待ち受けていた運命とは。

(つづく)


(毎号掲載されてた読者参加ゲーム『大航海時代』。選択肢を選んでハガキを送ると、結果がカードになって返信されて来ます)
(1997年7月号に十二神将特集。相変わらずニッチにも優しい誌面作り)
(生意気にもスクリーントーンを使っています)
(この頃琉球史も好きだったので謝名親方のイラストを投稿してみたり)
(歴史を語るなら拷問の存在は無視できんですよね)
(月刊DaGama1997年7月号表紙)
(この4コマ、我ながら好きです笑)
(1997年7月号付録は人形劇三国志の諸葛亮ポスター)

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