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海面清掃船の女

「船長、あの噂本当なんかい?」
「ああ、本当らしいっしょ」
「でも、女で出来きるんかいのぉ。こん仕事」
 そう言って、航海士の杉山は双眼鏡を手にして浮遊ゴミの行方を追い始めた。昨日の大雨で紀ノ川が出水し、大量のゴミが海に流れ込んだ。海面清掃船「紀州丸」は小さな船体を揺るがせて速度を上げる。北港の魚釣り公園を過ぎた辺りまで達すると、杉山の視界に浮遊ゴミが現れた。
「おー、あったあった、あったっしょ」
 夥しい流木やナイロン袋、プラスチックなどの雑多なゴミの帯が、朝日を浴びて紺碧の海に揺らめいていた。
「ほほう、こらぁようけあらぁ。船長、どっからやっつけらぁ?」
「そうやなぁ、大阪からやいしょ」 
 船長の楠本は、浮遊ゴミを睨みながら面舵を切った。
 紀州丸の船体が大きく左に傾く。
「大阪の流木から潮岬やしょ」
 杉山の声が船内放送で響く。青い作業服を着た船員らが、デッキの上に出て動き始めた。潮岬とは船を南進させると言う意味である。北進は大阪。西進は四国、東進は和歌山と言った。
 紀州丸は海に浮かぶゴミを回収する海面清掃船として、紀伊水道に面した自治体の広域連携事業としてつくられた。係船場は、和歌山港の青岸地区にある。乗組員は全部で七名。少数だが海面清掃で鍛えられた精鋭部隊だ。
 この日は、船体に装備された四十立方メートルのコンテナに、三杯のゴミを回収した。ゴミは満杯になると係船場に帰港し、クレーンでコンテナごと陸揚げを行う。陸揚げされたゴミはしばらくの間天日干しにされ、塩抜きされた後、青岸のエネルギーセンターで焼却される。この日は、ゴミが浮遊している海域と係船場を三往復もし、最後の陸揚げの頃にはすっかり陽が暮れていた。
 一日の作業を終えて船体をブラシで水洗いする船員達から笑い声が響いている。
「音ヤン、もし女が入ったらワイはスーツ着て紀州丸に乗るっしょ」
「がははは、ほなワイはタキシードやして」
 石本音吉と江口良和は冗談を飛ばし合った。
 紀州丸に異変が起こったのは一ヶ月前のことだった。
 機関長の山本が、持病の難聴を理由に突然紀州丸を下船したのだ。機関場の仕事は、エンジンの調子を耳で聞き分けなければならない。その耳が悪くなっては機関業務を全う出来ない。山本の退職願いに、乗組員らは留意を促したが山本の意思は固かった。山本の代わりには、機関の免許を持っている江口が昇格した。江口は、山本より二〇歳ほども年下だ。 紀州丸の機関長は、普通の船の機関長とは比較にならないほど大変である。それは機関業務だけでなくゴミの回収作業にも加勢しなければならないからだ。回収作業中も、機関長はエンジン音など機関まわりに注意を払わなければならない。紀州丸の法定船員は、船長一名と機関長一名だが実際には機関補助員がもう一名必要だった。
 この数日、紀州丸はある女の噂で持ちきりとなった。山本の退職に伴う欠員補充になんと女が応募してきたのだ。男女雇用機会均等の動きもあって、募集に男女差別をしないとの方針が出されていた。が、まさかこのような特殊業務に女性が応募してくるとは誰しも思いもよらぬことだった。しかも、その女性は機関の海技免許を持っているとのことだ。募集では海技免許の有無は不問としていたが、免許保有者の方が採用は断然有利になる。現在の応募は男五名にその女一名の計六名だ。面接試験は明日行われる予定だが、現状では唯一機関の免許を持っているその女に採用が決まりそうな状況だった。
「中川君、この中西星子(ホシコ)という女性、機関の免許持ってるよな」
「ええ、私も驚いたのですが五級の機関の免許を持ってますね」
「なにか、やっていたんかなあ」
「経歴には特に書いていませんけどね」
 前川課長と中川係長は、代わる代わる中西星子の履歴書に目を落とした。
 面接日にその女はジーパンにトレーナーというカジュアルな格好で現れた。小柄で愛らしい顔立ちのせいか、年齢より遙かに若く見えた。履歴書では三十一歳だが、どうかすると二十代前半といっても通用するぐらいだ。
「なぜ、この仕事をやりたいと思ったのですか?」
「とにかく生活に困っています。海技免許を持っているので海の仕事が出来ればと思って応募しました」
「免許はなぜ取られたのですか」
「母に影響されました。母が海の仕事をしていましたので」
「どんな仕事ですか?」
「もともとは上行(かみゆき)です。私の家は祖父母の代から関東への材木の搬送を行っていました。私が生まれる時に父はその道中で難破し亡くなりました。その後、和歌山に戻って母は自分の父の潜水士船に乗っていました。実は、私も高校卒業した後七年ほど別の潜水士船の補助員として船に乗っていまして、機関の免許はその時取りました」
「上行かぁ、音ヤンといっしょやなぁ」
 楠本が言うと、杉山が感慨深げに頷いた。
「あんたの潜水士船の名前はなんていうんやしょ?」
 楠本が身を乗り出して訊く。
「神崎健三の栄神丸です」
「か、神崎って、あの神崎一門の神崎かしょ」
 杉山が驚いた表情で言った。
「はい」
 中西星子が答えると、楠本と杉山は口元をポカンと開けて驚いた。
 神崎一門とは近畿で潜水士の一大グループを結成し、潜水形式がカブト式からボンベ式に変わった今も勢力を保っていた。紀伊水道南部に伊島という離れ小島がある。神崎一門とは伊島出身者で構成される潜水士集団だ。伊島は外洋に面し、古くからアワビやサザエ、海鼠など、海産物によって生業を立ててきた。このため男女問わず潜水作業に長けている。高度経済成長期に入ると各地で巨大な港湾開発が始まった。伊島の男たちは給料の高い港湾開発の潜水士として転身していった。潜水に長けた伊島の強者たちは瞬く間に一大勢力を結成した。その勢力は、いつの頃から港湾関係者の間で「神崎一門」と呼ばれるようになる。
「そしたらあんたのお爺さんは?」
 楠本が訊く。
「林重吉です」
「えっ、林さんの孫かいな」
 楠本は身を反って驚いた。そして、改めて星子の顔をまじまじと眺めた。杉山は横で目を丸くしている。
 林重吉は和歌山市雑賀崎の出身だった。徳島の伊島出身者で固められた神崎一門の中で、唯一伊島以外の出身者として認められた潜水士だった。その証が弟子の神崎健三である。健三は神崎一門の中でも最実力者の直系であるが林重吉に弟子入りをしていた。林重吉は和歌山出身ながら神崎一門の中では例外的な扱いを受けていた。
「ご存じなんですか。お爺さんのこと」
「ほらぁ、和歌山港で林重吉さんの名前を知らん人はおらなっしょ」
 杉山は口元を綻ばせて続けた。
「そしたら、あの船に乗っていた女の人があんたのお母さんかしょ」
「はい」
 星子の面接は、意外な話となり長引いた。
「それでは、最後に何か言っておきたいことはありますか」
 前川課長が時計に目をやりながら訊く。
「私体は小さいですが男の人には負けません。一生懸命働きますのでよろしくお願いいたします」
 午前中に他の男性五名の面接も終り選考が行われた。最終的に自衛隊に勤めていた二十四歳の大男と、機関の免許を持った中西星子の二名に絞られた。
「江口君の補助を考えると機関の免許を持った中西星子が採用されるべきかと思いますが、船長いかがですか」
 前川課長は楠本船長の顔を伺った。
「中西星子かな」
「じゃあ、中西星子に決めますか」
 前川課長は中川係長と杉山航海士に視線を振った。
「ちょちょっと待ってくれんかのし。機関の補助が必要なのはワイもわかる。あの中西っちゅう女の経歴からも雇いたいという気持ちも湧く。そやけど女で出来ますかねぇ。こん仕事きついっすよ。自衛隊の男にして途中で免許取らすって手もあるんやないか」
 杉山航海士が慌てて口を挟んだ。
「確かに」
 中川係長が言った。
「それに・・・・・・」
 と、杉山は言いかけた。
 まだ何かあるのかと三人が杉山の顔を見ると、杉山は言葉を飲んで押し黙った。
「まあ、杉山航海士の意見ももっともですが」
 と、前川課長は楠本船長の顔を伺いながら言った。
「あの女の方がもう一人の若い男の方よりもよっぽどしゃきしゃきしちょる。神崎一門の筋金入りや。女が頑張ったらうちの奴らも暢気にしておれんのやないか」
 楠本船長は断定的な口調で言った。船長のだめ押しに杉山も黙って頷くしかなかった。
 採用者は中西星子に決まった。
 中西星子は早速明日から乗船することになった。
 採用者の決定が瞬く間に乗組員に広がる。
「音ヤン。やっぱり女に決まったらしいっしょ」
「ほぅ、そらあかなっしょ。今晩、散髪しておめかししとかな。色男は忙しなるっしょ」
「でも音ヤン、その女神崎一門で働いてたらしいで。がいな女ちやうか」
「えぇほんまかぁ。そらあかなっしょ。神崎一門いうたらガラッパチばっかしやしょ。手え出しよったらえらい目に遭うわいて」
 音ヤンらの笑い声が船内に響いた。
 翌日、前川課長と中川係長に連れられた中西星子が船員達と向かい合った。小柄な星子を前にした船員達から小さなざわめきが起こる。星子は緊張する様子もなく一礼をした。むしろ前川課長の方が緊張気味で、意味のない咳払いを繰り返していた。
「ええっと、んんっ、今日から乗船することになった中西さんです。皆さんよろしくお願いいたしますよ」
 前川は星子に挨拶を促した。
「これからお世話になります中西星子です。精一杯頑張りますのでどうかよろしくお願いいたします」
 星子は深々と頭を下げた。
 挨拶を終えた星子は事務所で一時間ほど海面清掃の説明を受けると、大きめの作業服とヘルメット姿で紀州丸に乗船した。
 紀州丸はいつもどおり紀伊水道へと出航した。
「中川君よ。こりゃあ、今日は昼からマゼかもしれんな」
「たしかに雲の動きが怪しいですね。中西さんも着任早々にマゼの洗礼ですかね」
 前川課長と中川係長は、空を見上げながら談笑した。
 マゼとはこの地方で南風のことを言う。
 瀬戸内海では、四国側の南から吹き下ろす強風を「やまじ風」とか、単に「まじ」と言うが、この紀伊水道を挟む和歌山や徳島では、南からの強風を「マゼ」と呼んでいる。
 紀伊水道には太平洋から来る風を直接遮るものがないため、春先や夏場には強烈な南風が海上を吹き荒れる。
 紀州丸は、小回りがきくようにと、船体はわずか百九十トンしかない。マゼの日には、大海に浮かぶ木の葉のごとく船体が揺れる。揺れるだけなら船酔いに慣れればいい。だが、その状態で長時間浮遊ゴミを掻き集めるとなると、よほど神経を集中し続けなければならない。何年も勤めた習熟者であっても、マゼの日の危険度は通常時の数倍にも跳ね上がる。
 星子は船酔いだけには自信があった。海面清掃の作業は説明を聞いた限りでは単純だった。とにかく一生懸命やれば何とかなると、自分でも意外なほどリラックスしていた。デッキに出て、久しぶりに潮風を体いっぱいに受けてみた。目前の淡路島は、大きすぎて島のように見えない。沖にある水平線は、地球の曲率をはっきりと表している。母や茜のために頑張らなくては。星子は自分の力を確かめるように手摺りを強く握った。
防波堤から外に出ると船の揺れが大きくなった。いつしか紀州丸は友が島の南側に達していた。
「前方三百メートル。潮岬から大阪やいしょ」
 突然、杉山の声で船内放送が鳴った。
 船員達がケンツキを持って各々の持ち場に着く。星子もケンツキを持って言われていた場所に急いだ。ケンツキとは、物干し竿ほどの長い柄の先端に十字型に尖った金具がついた道具である。見た感じは小舟を操るためのハッカーに似ているが、よく見るとゴミ回収専用に作られたケンツキはハッカーとは似て非なる道具だった。
「ゴーグルおろしとけぇ!」
 誰かの叫ぶ声が聞こえた。星子は慌ててヘルメットについたゴーグルを降ろした。星子は、船体中央部に装備されているコンテナの最後尾に配属された。紀州丸の七名の配属は、右舷舳先に石本音吉、左舷舳先に満田巌、コンテナ中央部右舷側に江口良和、左舷側に上本達也、コンテナ最後尾に中西星子である。操船室では船長の楠本勲が舵をさばき、航海士の杉山基次郎が司令塔となって回収作業のコントロールを行う。
 星子は、近づいた浮遊ゴミを目にして絶句した。
 ゴミは遠くから見ると黄金色できれいに見えた。近づくにつれ白いものが無数にちりばめられて益々きれいに見えたのだが、間近で見るとそれは大変なものだった。
 黄金色に見えたのは無数の木切れであり、白くちりばめられていたのは、コンビニ袋とかペットボトルとかプラスチックだった。後は、何とも言い表しようのないガラクタで、木ぎれや水草がドロドロにもつれ合っていた。
潮の匂いとは明らかに違う異臭が星子の鼻を突く。
 ゴミに狙いを定めた紀州丸は、減速してゆっくりと前進を開始した。
いよいよかと星子は中腰になって身構える。船は前後左右、上下と縦横無尽に激しく揺れた。中腰の体勢でないと、直ぐにバランスを失って転んでしまう。
 紀州丸は二つの船を並列に繋げた双胴船だ。前進することによって二つの船の間にゴミが吸い込まれていく。それを作業員達がケンツキを操って、真ん中にある鉄網でできたコンテナと呼ばれる籠にゴミを誘導、集積していく。コンテナは大型のトラックがすっぽり入るほどの大きさだ。
 海水が泡を立てて渦を巻く。コンテナの中に海水が激流のように入り始めた。コンテナの編み目で砕かれた飛沫が、塩水を気泡にしてはじき飛ばす。星子の顔に霧状の潮水が張り付いた。眼に染み入った潮は涙となって溢れ出る。星子は何度も指で両目を拭った。ガンゴン! と骨まで響く大きな音がした。紀州丸がゴミの帯に突入したのだ。おびただしい流木がなだれうって入ってコンテナに突入してきた。
 舳先に立つ石本と満田のツートップは、腰を落として巧みにケンツキを操り次々とコンテナ内にゴミを誘導している。コンテナ内に流れ込んだゴミは、上本がケンツキを使って後方に効率よく送り込んだ。
 星子も見真似たがとても真似ることなど出来ない。星子は事前に作業の説明は受けていたが、激しい作業に臨場してなすすべを忘れてしまった。船の前進とともにコンテナ内に流れ込む海水は、川で言うと立っていられないほどの激流だ。誤って落ち込めばただごとではすまない。打ち砕ける海水の飛沫が何度も顔にかかった。生臭い塩の臭いが鼻を突く。激しくゴミと海水が怒濤するコンテナを覗き込んだまま、星子は身をすくめ動けなくなってしまった。
「中西さん、ゴーグル降ろして早よゴミを上げて!」
上本が大声で叫ぶ。
「えっはいっ」
 星子は慌ててヘルメットからゴーグルを降ろすと、渾身の力を込めてケンツキをコンテナの中に突き入れた。が、流れ来るゴミにケンツキはあっさりはじき飛ばされてしまった。偶々手の届くところに引っ掛かったケンツを、星子は必死の思いで手を伸ばして握り上げた。コンテナの中をじっと見ていると、速い流れで目が回る。星子は、どこに視線を合わせて良いかわからなくなった。
 バキバキと何かが裂けるような音が聞こえてきた。見ると細かい木切れがコンテナの鉄網に突き刺さって弾けていた。その間にまだ青さの残る大きな竹がつっこんで、コンテナの編み目に詰まっている。竹は次々と押し寄せるゴミを受けて弓なりに曲がり始めた。続いて流れてきた二股の流木がその竹に引っかかった。もの凄い力で竹が弓のように一挙に曲がる。
「危ないっ!」
 上本が振り返って星子に言った時だった。
 耐えきれなくなった竹はパシッと音を立てて爆ぜた。勢いで周囲のゴミや破片が弾け飛ぶ。破片の一部が星子のヘルメットを掠めた。星子は、首をすくめて怯んだ拍子にバランスを失った。尾てい骨が割れるほどの勢いで腰から落ちると、星子は直ぐに半泣きで腰をさすりながら立ち上がった。舳先から石本の「ウラァ!」と言う怒声が止まない。
 星子は無我夢中でケンツキを操った。軍手が見る見る赤い血で染り、か細く白い手首にまで血が滴った。激しく揺れる船体に星子の痩身が何度もぶつかる。その揺れは、小さな星子の体を時折軽々と宙に浮かせるほど突き上げた。星子は涙顔で延々とゴミを掻いた。二、三度はヘルメットが割れるほどの勢いで、船体の支柱に頭がぶっかった。何故かふと母と茜の顔が頭に浮かんだ。星子は自分の体が骨まで軋んで破壊寸前になっていることを甘受していた。激しい揺れ、鼓膜を揺るがす衝撃音、次々と叩きつける飛沫、一種の陶酔感で星子の意識がスーッと薄らいだ時だった。
「作業終了」
 放送と共に船が減速した。終わったのだ。星子は周りにはばかることなくその場に尻餅をついた。星子の荒い息は何時までも収まらない。潮で喉が噎せこんで激しく咳き込んだ。涙がにじんで眼が痛い。
「ありゃあ、こりゃ全然積み上がってないやして。やっぱり無理ちやうかぁ」
 江口機関長がコンテナをのぞき込んだ。無理と言う言葉がうなだれる星子の頭に重くのしかかる。
「す、すいません」
 とっさに、星子は大きく肩で息をしながら立ち上がって謝った。
「まぁ、エグチン、そう言うても最初からは無理やっしょ。それに女の人やで」
 上本が江口を宥めるように言う。星子は女の人と言われたことが、悔しくてしかたなかった。
「どうやしょ、新米。まいったかして」
 今度は、耳を震わす程の濁声が近づいてきた。
「男も女も元々はこないして体を動かして働くもんやしょ。ばてるから飯がうまい。そやから健康やしょ。わかったかい、お嬢ちゃん」
 舳先から戻ってきた石本は、へたり込んだ星子を見て大笑いすると、満田とともに船内に入って行った。
 この石本音吉は、みんなから音ヤンと呼ばれている。年齢は五十半ば、身長は百六十足らずの小柄だが、体重は百キロを超えている。顔というか正確には丸坊主にした頭の先まで赤銅色で、獅子舞のような顔立ちである。年季の入ったヘルメットには、何故かタオルの捻り鉢巻きが巻かれてあった。この音ヤンは毎日みんなの昼飯をつくっている紀州丸の厨房長だ。
 メニューはひとつしかない。それが紀州鍋である。
 紀州鍋は牛のすじ肉のだし汁で、その日によって何が入っているかわ分からないごった煮の料理だ。船員らは飯だけ弁当箱に詰めて持ってきて、この紀州鍋をおかずに毎日昼食をとっていた。星子は自分で弁当を作ってきていた。かわいらしい弁当箱を開けると、赤いウインナーや黄色い卵焼きなど色とりどりの中身が現れる。
「やっぱり、女の子は違うわして」
 楠本船長が目を細めた。星子も紀州鍋に箸を伸ばした。
「おいしい!」
 やっと星子は笑顔を見せた。
「音ヤン。紀州丸鍋ってやもめ料理やけど、若い女の子にも受けるんやなぁ」
 杉山が笑いながら食後の煙草に火をつけた。
「お嬢ちゃん、さっきはちとびびっとったんとちゃうかっしょ」
 音ヤンが、にやつきながらコーヒーをズルルとすすった。
「ええ確かに。でもお嬢ちゃんは止めてください。中西と呼び捨てでいいです。星子(ホシコ)でもいいですけど」
 緩めた口元を結んで音ヤンがコーヒーを置くと、杉山が割り込むように言った。
「星(ホシ)チャンでいいかな」
 杉山航海士は妙に強引だったが、星子は親しまれるような呼び方で良いと思った。
「じゃ、星(ホシ)チャンでお願いします」
 星子は頭をちょこんと下げた。
「よっしゃ、星チャンでいこら」
 そう言って杉山航海士が豪快に笑うと、みんなもつられて笑った。
「あっ、その手あかなっしょ」
 星子の手の平の豆は、無惨にもつぶれて血が付いていた。気付いた上ヤンはテレビの下の木箱を取り出した。
「あれ、確かカット絆ここにあったっしょなぁ。無いなあ」
 上ヤンは小さな木箱をまさぐった。
「これ使え」
 無口な満田が初めて口を開く。満田は自分のポーチからカット判を取り出した。
 満田は満ヤンと呼ばれ、四十代前半で、面長の顔立ちに鋭く切れ上がった目尻が特徴で、長くのばした髪の毛は後ろで結わえられ、口には立派な髭を蓄えていた。
 噂では和歌山市内にある空手道場で師範代を務めているとのことだが、その腕前を見た者は紀州丸にはいない。ただし、ケンツキを使わせたら紀州丸で満ヤンの右に出るものはいなかった。回収効率は満ヤンの腕にかかっていると言っても過言ではない。
「満田さん、ありがとうございます」
 礼を言う星子に満田はガラにもなく赤面した。
「この人はな、一見怖そうやけど根は一番優しいんやしょ。それに、ケンツキの名人で、紀州丸の右に出る者はおらん。満ヤンのケンツキさばきは小次郎のツバメ返しやって呼ばれてらぁ」
 江口が、鼈甲の色つきメガネの端を指先でチョンと上げると上ヤンが続けた。
「そうそう、風に舞い上がったゴミまで引っ掻き込むっしょ」
 すると音ヤンが、ケンツキに見立てた箸を一本づつ両手に持ってへっぴり腰でおどけた。
「おうおう、満ヤンが小次郎のツバメ返やったら、わいは武蔵の二刀流やして」
 音ヤンの戯けた顔に食堂は爆笑に包まれた。
 その日の午後、幸いにも前川課長の予想は外れマゼにはならなかった。
 星子の海面清掃船での初日は無事終わった。
「星ちゃん、明日もあるんや。もうおいたらどうや」
 最後まで残っていた杉山が下船口で言った。
「ええ、手摺りだけ拭いておきます」
 星子は雑巾を絞りながら言った。
「そうか、じゃあ最後帰るときここに鎖だけ掛けといてや」
 そう言って杉山は下船した。
 星子は一人残って紀州丸の掃除をした。海面清掃の仕事は予想以上に大変だった。初日にして果たしてこれから続けと行けるのだろうかという不安もあったが、一方で母と茜を支えなければならないという気持ちも強かった。やるしかない。どんな仕事でも労せずお金を稼げることなどあり得ないのだ。星子は唇を噛んで一人薄暮に揺れる紀州丸の手すりを磨いた。
 夕食の買い出しをして、松江のアパートに帰ると母と娘の茜が出迎えた。
「茜ねぇ、お婆ちゃんと字の練習してたんよ」
「そうか、なんか書けるようになったんかして」
「うん、ほら見て見て」
 三歳になったばかりの茜は、新聞広告の裏に書いたマジックの字を得意そうに星子に見せた。大きい字や小さい字で中西星子とたくさん書いている。
「お母ちゃんの名前書いてくれたんかして」
「うん」
 茜はにっこりと頷いた。茜と話すと一日の疲れも癒える。
「あっ、お母ちゃんその手どしたん」
 茜が心配そうな顔で母の手の平を見ながら言った。
 とっさに、星子は潰れた手の平を腰の後ろに隠した。
「なんでもない、なんでもないの。それより、茜、今晩カレーライスにしようか」
「うん」
 茜はまたにっこりと頷くと、嬉しそうに部屋の中を走り回った。
「星子。手は大丈夫かのし。あたしがやるわして」
「なん、大丈夫やして、ちょっとまめがはがれただけやいしょ」
「仕事はきついんかのし」
「いんや、たいしたことないわ。直ぐ慣れるっしょ。それと、良いひとばかりやしょ。あたし気に入ったわして」
「そうかして」
 年老いた母の良子は、タマネギを剥きながら目をしばたたかせた。
 星子は実母と三歳の娘との三人暮らしだ。夫はいない。夫とは二年前に離婚した。自分の妊娠中に浮気をした夫に三行半を突きつけたのだ。夫の浮気相手も絡んで二年ほどごたごたしたが、きっぱりと別れた。生まれた茜のために我慢しようと思ったが、いつまでも不甲斐ない夫にほとほと嫌気がさした。僅かばかりの養育費は約束させたものの、相手はだらしのない男だ。入金もいつ滞るかわからない。星子は一家の大黒柱としてしっかりとした職に付かなければならなかった。が、条件の良い仕事に就くことは難しい。パートをしながらハローワークに通う星子は、海面清掃船の募集を知った。母に反対されたが、星子は応募し採用された。それが、結婚前に取得していた船舶免許のおかげだと思うと、複雑なものが去来する。
 星子の母も祖母も機関の免許を持っていた。中西家は祖父母の代から上行きと言って、関東に材木を船で運ぶ仕事をしていた。その材木は宮崎県日南の飫肥杉だった。飫肥杉は「弁甲材」と呼ばれ、油分を含んで加工しやすいため、江戸時代から造船材として使われてきた。
 最盛期は昭和二十年代で、その後はプラスチックなどに押されて需要が減っていったが、中西家の三百トンの貨物船も弁甲材で造られたものだった。その船で、関東まで貨物船を造るための材木を運んでいたのである。
 昭和二十九年七月、中西家の宝元丸は材木を積んで淡路の津名を出航した。
 途中、駿河湾沖で発達した低気圧に遭遇した。激しい横波に耐えきれず、宝元丸は横転。積み荷の材木と共に、乗組員の三人は真っ暗闇の海に放り出された。
 乗組員は、星子の祖父元治と祖母輝恵、父和夫だ。元治は放り出された時に既に動きがなく直ぐに波間に消えた。父和夫は頭が痛いと言いながらも、流木に捕まっていた。輝恵は嵐に揉まれながらも必死で近くに浮いていたロープを取り、弱る息子を流木板に縛り付けた。荒波の中どれほど時間がたっただろうか。輝恵は気がつくと漁船に助けられ、和夫は流木板に結わえられたまま発見されたがすでに息絶えていた。元治は何の痕跡も残さないまま逝ってしまった。
 その時、良子は星子を身ごもって淡路で留守を任されていた。突然夫を失った良子は、実家の和歌山に帰った。良子は和歌山に帰ると星子を出産し再び船に乗る。良子の父林重吉は潜水士で、和歌山港築港の潜水作業を生業としていた。良子はその船に補助員として乗り込んだ。星子は船に乗る母良子の姿を見て成長した。良子の父は七十まで潜水士を続け、七十七歳で生涯を閉じた。良子は船を売り払い船舶関係の仕事を辞めると、日雇いなどで細々とした生活を続け星子を育て上げていった。 
 良子は、星子を船の仕事に就かせたくなかった。だが、星子は船が好きだった。小さい頃から母について、祖父の潜水士船によく乗っていたからだ。その船に神崎健三という弟子が送気員として乗っていて、やがて神崎健三が祖父から独立すると、星子が高校を卒業する時に補助員として呼び入れた。母の良子は反対したが星子は乗船を決意した。理由は神崎健三の息子健也である。小さい頃から知り合いだった健也は星子に好意を抱いていた。その船の送気員となる健也の猛烈な誘いで、星子は乗船を決意した。星子はその潜水士船で七年ほど働いた。その間に健也からの勧めもあって海技免許を取得した。そして、星子は健也と結婚をする。小さい時から健也は優しい性格だった。星子はそれほど健也のことを好きではなかったが、結婚するなら優しい男がいいと徐々に思い始める。結婚すると健也の優しさはだらしなさへと変わっていった。優柔不断で煮え切らない性格、酒好きで女好きの健也との結婚生活は二年続かなかった。だが、よく考えてみればその健也によって船舶乗船経験を得ることができ、海技免許を取得することが出来た。そして今、海面清掃船に就職したのだ。星子は今回の仕事がうまく続けられれば、健也からの一種の慰謝料のような気もしてくるのだった。
 星子が紀州丸に乗船して一ヶ月が経った。
 相変わらず仕事では苦労の連続で、いつも教育係の江口からきつい口調で指導されていた。が、星子は幼い頃から船乗りのきつい口調には慣れていた。他人から見ると罵倒されているとしか見えないような言われ方でも、星子は平気だった。そんなことより、女だからと言って容赦したり気を遣って欲しくなかった。たとえ体力では男にかなわなくても、自分が紀州丸にとって必要な人間だと一日でも早く思われるようになりたかった。
 星子は他の船員より一時間も早く出勤し、一番遅くまで残って仕事をした。
 この日も紀州丸は、浮遊ゴミを求めて紀伊水道に滑り出した。
 梅雨の中休みなのか空は晴れ渡っている。和歌浦の丸い山が新緑の光に揺れる。進むにつれ、白っぽい和歌山の市街地は徐々に凝縮され、かわって和泉の山々がのし上がってきた。何の漁なのか、茫洋とした海原の一カ所にたくさんの漁船が集結し、その向こう側では巨大なコンテナ船や大小の貨物船がひっきりなしに錯綜している。さすが、大都市への入り口、船舶通行の銀座と呼ばれる紀淡海峡である。紀州丸は小さなうねりに乗って心地よい周期を繰り返す。星子は、穏やかな海の風景の中で、ひとときのすがすがしい気持ちを味わっていた。
 操船室ではいつもどおり、楠本の横で杉山が双眼鏡を覗いていた。
「船長、あれ、なんやしょねぇ?」
「ああ、あれなぁ」
 楠本はその得体の知れない物の方向に紀州丸を進めた。
 やがて双眼鏡でその全容をとらえた杉山は、驚きの声を上げた。
「船長、でかい! 流木やして。おまけに根っこまで付いてらっしょ」
「前方に流木発見」
 鳴り響く船内放送に、船員らが慌ただしく配置に付いた。
近づいてみると、それは根っこの付いた直径二メートル、長さ十メートルはあろうかという朽ちた流木であった。
これまで流木の回収を何年も行ってきた船員達でさえ、ため息の漏れる大物であった。
「船長、これかいなぁ。ほんこないだ南海フェリーが大きな流木を見たって電話掛けてきてたっしょ」
「ああ、おそらくそうやしょ」
「こないなでかいのが、漁船にでも衝突したらえらいことやして」
「船長、どう料理しよらぁ。コンテナに入らなっしょ」
「うーん。ロープで結わんことには何事も始めれんが、こりゃ、結わえれんやして」
「ケンツキで引っかけて流木を持ち上げることもできんやして」
杉山航海士も腕組みをしたまま考え込んだ。
船員達も集まって流木を眺めながら、操船室の二人と同じように思案をしていた。
 突然、無口な満ヤンが口を開く。
「ロープかせ」
 江口がロープを渡すと、せかせかと満ヤンは自分の体にロープを結わえた。
「飛び込む気か」
 音ヤンが言った時には、もう満やんの体は宙に舞っていた。
 みんながアッと言う声と、満ヤンが海に飛び込む音を聴いた杉山が放送で怒鳴る。
「こらァ、むちゃすなっしょ!」
 今度は両手を掻いて海中から浮き上がってきた満ヤンが、一回大きく息を吸い込むと操船室に向かって叫んだ。
「他にないっしょ!」
 捨てぜりふを残した満ヤンは、まるで忍者のように素早く流木の周りを潜ってあっさりとロープを結わえてしまった。結わえ終わると、今度は流木に馬乗りになって、カウボーイの投げ縄の体勢である。
「ほら、クレーンにくくれ」
 飛んできたロープを上ヤンがキャッチし、船体に装備されているクレーンに引っかけた。
「ほな、満ヤン巻き上げるっしょ」
 と、すでに操作リモコンを手にしている、江口がスイッチを入れた。
ウィーンというクレーンの巻き上げ音と、ギシギシというロープの軋む音が、耳に響く。
「潮岬へ、よーそろぉー、よーそろぉー、はいすと!でっこぉ。よーそろぉー」 
 杉山航海士が号令をかける。よーそろぉーはユーはスロー、ゆっくり慎重にと言う意味、はいすとはハイストップで止まれの意味、でっこぉはレッツゴウで行けと意味だ。全て英語がなまったもので、船乗りだけに通用する言葉で星子もこれは知っていた。
 巨木が海水にいくつかの渦をつくりながらじわりと姿を現す。クレーンが巻き上がるにつれ、流木の片方だけが持ち上がってその一方が水面に浮いた状態となった。満ヤンがその斜めになった流木によじ登って馬乗りになる。 
 クレーンは更に巻き上げられ、ついに流木の片方がデッキに触れる位置まで来た時に音ヤンが思いっきり流木にケンツキを振り下ろした。音ヤンがオリャ! と言って流木をデッキの方に引く。流木がデッキにもたれかかった。上ヤンが素早く流木にロープを撒いて手摺りに結わえ付ける。いつの間にか音ヤンは小型のチェーンソーを手に持っていた。音ヤンはチェーンソーを床に押さえつけると、エンジンを駆けるための紐を勢いよく引っ張った。チェーンソーの乾いた音が響く。音ヤンはペロリと舌を舐めると、チェーンソーを構えてデッキから身を乗り出した。
「覚悟しさらせ。ウドの大木ぅ切り刻んだらぁ」
 音ヤンは不敵な笑みで巨木にチェーンソーを添えた。
 ウィーン。ガリガリ。チャチャーン。騒々しい音が鳴り響き、風に舞った木くずが音ヤンの顔の方に飛んだ。しかめっ面となった音ヤンが、たまらずチェーンソーを流木から離す。向きが悪かったのだ。上ヤンが笑う。音ヤンは、ぺっぺっと唾を吐き何度も口を拭った。今度は風向きを考えて、音ヤンは反対の方向からチェーンソーをゆっくり添えた。
 船員らがてきぱきと動く傍らで、星子は何か手伝いたかったが何をしていいのか分からずに所在なく見守るしかなかった。
「星(ほし)チャン、ケンツキ持ってこいっしょ」
 クレーン操作をしながら、江口が言った。星子は、やっと自分にも仕事が言いつけられたのがうれしくて、威勢のいい返事をすると急いでケンツキをかき集めてきた。
「なに考えてんのや。そんなにもいらんのやぁ、一本でええんやっしょ」
 江口の言い方はいつもきつい。
「星チャン、思いっきりケンツキかまして引っ張り上げるんや」
 普段は優しい上ヤンも仕事中は容赦ない。
 切った流木はクレーンだけでも持ち上がるが、安定させるためにはケンツキをかまして船体に当たらないようにする必要がある。
 星子は、巻き上げるたびに腰を落としてケンツキを持つ手に力を入れた。
流木は海水を含んでとにかく重たい。揺れ動く巨木に、星子の突き刺したケンツキは簡単に振り払われる。その度に、星子の痩身が右に左に振り回される。どうかすると体が一回転するほど巨木に翻弄された。
「こらぁ、ちゃんと持ってしっかり固定せい!」
 江口が叱咤する。
 おまけに、ここにきて風と波がいよいよ強まり船体が激しく揺れ始めた。
「こう持て、こう!」
 見かねた音ヤンが、チェーンソーを置いて星子のケンツキを握る。星子は見よう見まねで音ヤンの握ったように握り直した。強い南風が船員達の顔や体に、容赦なく飛沫を叩きつける。星子は顔も服も飛沫でぼた濡れだ。苦い塩が口の中に溶け込んでくる。星子は何度も咽せ込んだ。塩なのか汗なのか目にも入ってきて視界もおぼろげになった。星子は歯を食いしばって頑張った。
 満ヤンのまたがっている巨木は激しく揺れ動き、まるでロデオの暴れ馬のような状態だ。
「こら、はよせい!」
 満ヤンが鬼の形相になった。
 格闘することおよそ二時間。
 流木を全て上げ終わると、星子の軍手は真っ赤な血で染まっていた。
 ケンツキを強く握り続けたために、固まっていた手の豆が再びつぶれたのである。
 作業が終了すると、激しく揺れるデッキに全員がへたり込んだ。
 疲れ切った船員達は、汗とも飛沫とも区別の付かぬボタ濡れ状態で、誰一人ものも言わず、肩で息をするのみであった。
 しばらくしてやっと音ヤンが、ぽそっと口を開いた。
「星(ほし)チャン。着替な風邪引くっしょ」
 満ヤンは無言のまま両手をつっかい棒にして体を起こすと、重たい足を引きずるように船室の方に消えていった。
長時間巨木を両足で挟んでバランスを取っていた彼の足は、棒のようになっていたのだった。
「星チャン、後で満ヤンの足揉んだりしょ」
 音ヤンの息は切れ切れだ。
 帰港中、星子は激しく揺れる船内で、うつむせになった満ヤンの足をさすり続けた。
 満ヤンの内股は所々内出血で赤黒く腫れ上がっている。
「満ヤン、若い女の子にさすってもうたら早よ治らっしょ」
 元気の出た音ヤンが目を細めると、満ヤンは「あほんだら」とだけ言って取り合わなかった。が満ヤンの顔は真っ赤だ。
「後で石本さんも揉みましょうか」
 音ヤンの方を振り向いて星子が言った。
「ワイはええねん。ワイはぁ!」
 動揺して赤銅色の顔をさらに沸騰させた音ヤンに、まわりから爆笑が起こった。
 満ヤンの足は、一週間ほどするとすっかり元に戻った。
 しかし、星子の両手のまめは、その後も回収作業の度にはがれて何度も血を吹いた。
 やがて、まめもはがれなくなる頃には、暑い夏も終わりにさしかかっていた。
「中川君よ。いよいよ台風シーズンのお出ましやな」
「ええ、二つも同時に発生してますね」
 気象台からファクシミリで事務所に送られてくる台風情報に目をやりながら、二人は心配そうに会話を続けた。
 紀伊水道に浮かぶゴミは、そのほとんどが台風時に紀ノ川から流れ込んだものである。
 つまり、この時期が紀州丸にとっては一番忙しく、誰もが台風の動きに目をとがらせていた。
 日一日と台風は迫ってきた。
 星子はこの頃になると、親子ほども年の離れた音ヤンと一番仲良くなっていた。音ヤンと話していると、何故か父と話しているような気持ちになることがある。それは、音ヤンが父と同じ上行きの仕事をしていたからだろうと星子は思った。星子の父は、星子の生まれる前に上行きの途中で遭難し亡くなった。星子は父のことを全く知らないが、音ヤンが上行きの話をしてくれる時は、会ったこともない父と話しているような気持ちになる。星子は、以前上行きに乗っていた音ヤンに対しては、他の船員と違う特別な感情を持っていた。
「音ヤン、十号の方は近畿に直撃しそうな感じやして」
「おぉセイコ・・・・・・、んや、星チャン。覚悟しときやし」
 音ヤンは、星子のことをよくセイコと言って星チャンと言い直す癖があった。
「もぅあたしセイコでもええよ」
「あかん、ワイだけ呼び方違うたらへんやしょ」
「そんなんどうでもいいんとちやうん」
 星子は変にこだわる音ヤンに笑い返した。
「今朝のテレビで今度のは雨台風やて言うてたわ」
「おぅそない言うてたな。ほらようけゴミが出るわしょ。プラスチックやビニール、電化製品。そいつらが海でどんだけ悪さしよると思うやして」
「そう言うたら、この前神戸から出航した高速船がナイロンゴミを吸い込んで、途中でエンジンが停止した騒ぎがあったわよねえ」
「そんなんたいしたことやあれへんのやしょ」
 音ヤンは調子を上げた。
「ええか星チャン。わいらが何でゴミを必死に取らなあかんのかしっとけよし。確かに流木や電化製品に乗り上げて、漁船やレジャーボートが大事故につながることを、未然に防ぐというのも大事なことやして。しかし、それだけや無い、もっと奥の深い深刻さがこのゴミにはあるんやして。自然界で分解されんゴミは永遠にのこるやしょ。出た直後の浮いてるゴミも、やがては水を吸って重たくなって海底に沈むんやしょ。誰もとらんかったら、百年後、二百年後はどうなるんやして。溜まるいっぽうやして」
 音ヤンの話は懇々と続く。
 河川出水時に海域に流れ込んだゴミは、海域を彷徨ったあげく数少ない自然海岸に漂着する。それは都市沿岸は埋め立てで海岸線が直立構造になっているため、そこにはゴミは漂着しないからだ。ゴミは傾斜構造をした自然海岸に漂着をする。貴重な海浜生殖物が植生したり、ウミガメの産卵場所となっていたりと自然環境にとって大切な場所にたどり着くのだ。
 漂着ゴミは海浜生殖物に覆い被さったりウミガメの産卵を阻害したりする。また、波によって砕かれたペレット状のプラスチックを、魚やウミガメが餌と間違って飲み込んだり、ビニール糸に絡まってカモメが飛べなくなったりと、我々の気が付かないところで、毎日当たり前のようにゴミの弊害が起こっているのだ。私たちの便利で豊かな消費生活の陰で、生物たちはゴミと格闘しながら生きている。
 さらに、このようなゴミのうち難分解性のプラスチックのゴミは永遠に残留し、様々な化学物質を自然界に撒き散らす。これらの問題は、今は生態系の末端での出来事であっても、やがて人間に差し迫ってくることは間違いない。私たち人間の問題としてこのゴミの問題を捉えなければ、将来大変なことになるのである。
「ええか、ワイらは和歌山でゴミを取るだけやなしに、大阪や奈良の皆にも捨てんように言うてまわることも大切やしょ。こない毎日必死こいて海でぎょうさんのゴミ取ってるんやでって」
 星子は、見かけによらず音ヤンが博識なことに感心しながら、何度も頷きながら話を聞いた。
 と、横にいた上ヤンが苦笑いで口を挟む。
「星チャン。音ヤンのこの講義は毎回ネタが同じやしょ、月一は聞かされるんやっしょ」
 すかさず音ヤンが上ヤンの頭を張り手でしばいた。
「じゃかぁしゃい。ひよっこはすっこんどれぇ!今新規採用者の研修しとんのやっしょ」
 力づくで上ヤンを退けると、さらに星子に対して延々と話を続ける。星子は音ヤンの話に熱心に耳を傾けた。
 翌日、台風十号は紀伊水道のど真ん中を北上する最悪のコースをたどることとなった。
 台風の東側には、発達した雨雲がびっしりと張り付いていた。明日朝までの予想雨量は、紀伊半島で六百ミリから七百ミリとものすごい雨量である。今夕から和歌山市内も暴風圏内に突入し、夜中にピークを迎える。
その夜、星子は台風関係のニュースに目を凝らし、床に就いたのは十二時前だった。だが、星子はなかなか寝付けなかった。着任してからの三ヶ月間の出来事が走馬燈のように頭の中を駆けめぐる。気が付くと音ヤンのゴミの話を反芻していた。茜が寝ぼけてむにゃむにゃ言いながら星子の体に張り付いてきた。茜の細い小さな体が、星子の懐の中にぴったりと当てはまる。茜の体温は丁度良い温もりだった。小さな寝息が規則的に聞こえてくる。母も寝息をかいて熟睡しているようだ。
 ときおり唸りを上げた強風が、古いアパートを地震のようにガタガタと揺らせた。その度に、茜は起きるでもなく夢うつつのままで星子の体にしがみついてきた。星子は茜のひんやりとした髪をさすり、温もりのある細い腕や足を確かめるように優しく撫で続けた。
 朝方になってやっとまどろんだ星子は、突然電話のベルに目が覚めた。まだ夜は明けきっていない。
 電話の向こうで、やや興奮した杉山の声が響いた。
「星チャンか。昨日の台風で紀ノ川が出水して大変なことになったんやっしょ。岩出の河川敷の工場からLPガスボンベが三百本近く流れてしまったらしいんやして。放っといたら大変なことになる。直ぐ来てくれっしょ」
 話を聞いた星子の眠気は一気に吹き飛んだ。
 星子はすぐに着替えると玄関の靴を引っかけた。
 背後で茜のか細い声がする。
「お母ちゃんどこ行くん」
「あ、茜。お母ちゃんお仕事よ。お婆ちゃんと寝ときなさい」
 茜は立ち上がって泣き出すと隣の母も起きた。
「星子。こんなに早く大丈夫かい。まだ、風も強いやして」
「大丈夫よ。それより大変なんやして」
「無理したらあかんで。海を軽う見たらあかん。お前はよお分かっていると思うけど」
「分かってるわして」
「さあ、茜ちゃんおいで。まだ、台風さんがいるからお婆ちゃんが一緒に寝てあげるわして」
 良子に手を引かれる茜を、星子は優しく抱きしめた。二、三度頬ずりすると茜を振り切るように玄関のドアを出た。アパートの階段を駆け下りる星子の目に土入川の様子が映る。尋常な水位ではない。こんな土入川を見たのは初めてだ。三百本のLPガスボンベっていったい・・・・・・。星子は状況を想像してみたが、その修羅場を頭の中に描くことはできなかった。自転車を青岸へと急がせ紀ノ川の土手に差し掛かった時だ、星子は思わず自転車を止めて息をのんだ。紀ノ川の水が土手の直ぐそばまで迫り上がっている。いや、水というよりか泥といった方が正確だった。圧倒的な泥の力でおびただしい流木やゴミが次々押し流されていく。紀ノ川は、こうして何百何千年も前から和歌山の土地を洗い流してきたのだ。自然の猛威を目の当たりにした星子は暫し呆然となった。
 青岸の事務所に到着すると、既にみんな集まって倉庫の方で準備をしていた。星子もあわてて倉庫の方に向かう。その時、事務所の執務室からけたたましいやりとりが聞こえてきた。
「係長! ボンベを見つけるには、わかかぜで行くべきやっしょ」
「しかし、杉山さん、ボンベは三百本も流れてるんですよ。小さいわかかぜが、そのボンベだらけの海に巻き込まれたらどうなります。機雷に囲まれたようなもんですよ」
「わかかぜに自分が乗り込んで、ボンベを近づく前に発見すればええんやしょ」
「今の海の状態でそれができるかい、杉山さん! 真っ茶色な泥濁りの海の中から、どうやってボンベを見つけられるというのですか」
 中川係長がそこまで言うと杉山は拳を握って押し黙った。
「課長、わかかぜは今出すべきではありません。浮遊物追跡シュミレーションで私が推測します。結果が出るまでにはしばらく時間がかかるでしょうが、それを待ってください」
 前川課長は返事をせず、ずっと腕組みをしたままである。
 その横から杉山が再び口を挟んだ。
「待てやん! 当たるかどうかもわからんコンピューターをあてにしてよぉ。現場もろくに知らん奴がえらそうに口だしすんなっ」
 杉山のけんか腰の口調に中川係長が一瞬ひるんだ。
 その言葉を聞いて、前川課長の眉間の縦皺が一層深まる。それまで横でずっと黙っていた楠本船長が口を開いた。
「課長、連中は待てる奴らじゃないやして」
 前川課長は、吹っ切れたように両腕をほどくと膝において言い放った。
「直ぐにわかかぜを手配して出航する。わかかぜには杉山航海士と上本君の二名が乗船する。残りは紀州丸で出航。その間に中川係長は全速力で数値シュミレーションを行うこと。その結果が出ればわかかぜはそれに従うこと。これでどうかな」
「了解やしょ」
 じっと唇をかむ中川の横で杉山は威勢よく返事をした。
「ちょっと、待って下さい」
 外で話を聞いていた星子が執務室に入った。
「私に行かせて下さい」
 一同は顔を見合わせた。
「あなたでは無理です」
 歩み出た星子に中川係長が対峙した。
「なぜですか」
 星子は詰め寄った。
「だって、あなたは、お・・・・・・」
 言いかけて中川係長はその言葉を飲んだ。
 星子は、中川係長が「あなたは女だから」と言いかけたに違いないと思い絶対に後に引かなかった。
「じっとしておれません。行かせて下さい」
 星子は、中川係長と前川課長に激しく詰め寄った。
 杉山が間に入る。
「直ぐに着替えてわかかぜに来い。ワイの命令や」
 杉山は星子の目をしっかりと見ながら言いつけると顎をしゃくった。振り向いて中川係長を睨みつける。杉山の迫力に押された中川係長は小さく頷くしかなかった。
「ありがとうございます」
 星子は踵を返すと倉庫に急いだ。
 しばらくすると、わかかぜの秋山船長と内田機関長が到着した。二人は大きめの作業服に身を包んだ星子を見ると驚いた。
「おいっ、おねえちゃん大丈夫かして」
 機関長の内田が嘲るように言った。
「大丈夫です」
 星子は憮然と答えた。
 わかかぜは監視船といってゴミの不法投棄を監視する船だ。船体はわずか二十トンしかないが、スピードは最速二十四ノットと早く小回りもきく。杉山と星子は出航準備の整ったわかかぜに飛び乗った。
「杉山さん、生きて帰れるかいねぇ」
「まあ、運次第やしょ」
 乗船するなり、秋山と杉山の間で冗談とも付かない会話が交わされた。
「で、どこ向いて行こらぁ?」
「友が島やしょ」
「えっ、この大潮に友が島は危険やしょ」
 秋山は口を尖らせた。
「いや、友が島やしょ。ボンベはあそこでのたまわってるはずやして」
 杉山が凄んだ口調で言うと秋山は観念したという表情で小さく頷いた。
「分かったっしょ。ほな行こらぁ」
 わかかぜのエンジン音がひときわ大きくなる。朝凪で風はぴくりとも動いていない。ポンツーンの手すりに掻き付いた前川課長だけが無言で見送た。紀州丸の前を通ると、船員達が一斉に手を振る。
「星チャーン、誤って落ちたらわいがボンベと一緒に回収したらっしょ」
 音ヤンのがらがら声に、船員達の笑い声が一斉に響いた。
「あんた星って名前なんか?」
 内田がにやついて訊く。
「ああすいません名前も言わずに。私は中西星子です。星の子と書いてホシコと読みます」
 星子は秋山と内田に挨拶をした。
「へー珍しい名前やしょ。セイコっちゅーのはようあるけどなぁ。そや、確か音ヤンの娘もセイコって言ってたっしょなぁ」
 妙に内田の語尾は濁った。
「えっ、音ヤンに娘? セイコって」
 星子は驚いた。音ヤンから息子が市内のパチンコ店に務めていることは何度か聞いたことがあったが、娘がいたなどという話は聞いたことがない。内田はしまったという顔をしている。その先には内田を睨みつける杉山の怖い顔があった。何か事情があるのだろう、星子はそれ以上訊かなかった。
わかかぜのスピードが更に上がる。青岸の係船場の方の水面は、土手を挟んで紀ノ川の反対側にあった。にもかかわらず、水面は濃いコーヒー牛乳の色になっている。その色は進むに連れて濃さを増してきた。海に出た紀ノ川の泥水が、陸に向かって押し寄せてきているのだろう。木切れなどのゴミもちらほらと混じっている。わかかぜは徐々に一文字堤の外海へと近づいた。いよいよ外海の光景をはっきりとらえた時、わかかぜの四人は一様に息をのんだ。
「な、なんやねんこれ、わいら何年も海に出たけどこんな海見たことないっしょ」
 秋山の言うように、その光景はいつもの海とはあまりにもかけ離れていた。いや、そこはもはや海ではなかった。あえて言うなら、草木の無い真っ茶色に広がる泥の大地。その泥の大地の中でうごめくおびただしいゴミ。木切れ、ビニール、靴、テレビ、タンス、ペットボトル言い尽くせないほど雑多なゴミがぶつかり、絡み合いながら浮き沈みを繰り返している。
あまりに現実離れした光景に、四人はしばし言葉を失った。
 昨夜の紀ノ川の洪水で、和歌山港の入り口付近にゴミを含んだ濁流が蔓延したのだ。
「す、杉山さん。ここは無理やして。プロペラにゴミでも絡んだら難破船やしょ」
 秋山が訴えた。
「うむ、遠回りするしかないっしょなぁ」
 気のはやる杉山も諦めざるを得なかった。
 わかかぜは左に旋回すると一文字堤に沿って雑賀崎へと進路を取り直し、この間に杉山は事務所から得たデータをもとにボンベの行方を占っていた。と、雑賀崎の突端にさしかかった時に突如星子が大声を上げる。
「あ、あそこに。あそこにすごい流木」
 気がついた杉山も目を丸くした。
「おお、これはすごいやして」
 雑賀崎の突端に流木が寄り集まり、大きな木ぎれの浮島ができていた。
「星チャン。ちょっと外に出て見るか」
 杉山と星子は、船外に出て代わる代わる流木の山を双眼鏡で覗いた。
「あれは間伐材やしょ」
 そう言って杉山は双眼鏡を降ろした。
「え、間伐材」
「そおやしょ。木の大きさが同じやしょ」
「そう言えば確かに」
「最近、山の手入れができてないんやしょ」
「山の手入れですか?」
「そうやして。山の手入れがいきとどかず、間伐材が放置されてるんやしょ。それが大雨の時、一挙に海に流れ込んでくるんやして」
「なるほど。そしたら、この海の問題は山の問題でもあるわけですね」
「そうや。自然に境界なんてないんやしょ。だからわいらの仕事も、もっと川の人間とか山の人間と一緒に考えなあかんのやして」
「なんか音ヤンもこの前、そんなこと言ってましたわ」
「ああ、音ヤンにこの手の話をさせたら長いっしょ。なんせ紀州丸の博士やして」
 杉山は音ヤンを思い出すように笑った。
「あの・・・・・・」
 星子は、内田のさっきの話が気になっていた。
「音ヤンに娘がいるんですか?」
 突然の星子の問いに杉山は笑い顔を消して口を結んだ。
「ああ、いたけど死んだ」
 杉山は遠くを見ながら答えた。
「一昨年、交通事故で死んだわしょ。ゴミとってる最中に電話がかかってきて紀州丸全力で走らいたけど、間に合わなんだいしょ」
「セイコだったんですか」
「ああ、清い子と書いてセイコや。結納の翌日の出来事やったわ」
 杉山は空を見上げた。
 星子の目頭が熱くなる。
 杉山は星子の方をちらりと見ると、表情を元に戻し流木群に目をやった。
「中にはいるか」
「はい」
 船内に戻ると、杉山はボンベの行方の話を星子に始めた。
 洪水のピークが夜中の一時頃、ボンベが流れたのもそのころであれば、ボンベは友が島沖に達した頃に明け方の満潮の上げ潮で南から北、つまり大阪よりに運ばれている。
 一方、台風の吹き返しの風は北から南へと上げ潮の向きと正反対に吹いているので、この二つの要素から場所を割り出せばよい。これまでも通常のゴミならばほぼ予測を的中させてきた。
 ところが、今回はよく分からない要素がひとつだけあった。
 それはボンベが受ける風の影響である。ボンベがどのような状態で、どのぐらい没水しているかが皆目見当がつかなかった。吹き返しの風を受け時、ボンベが北上する表面流と南に吹く風のどちらに支配されるかによって、動く位置は大きく変わってくる。
 杉山は今朝の係長とのやりとりで勢いづいたことを、今更少しだけ後悔していた。ところが同じ頃、事務所でパソコンを操っている中川も同じ事を考えていた。吹き返しの風が、ボンベの移動に与える影響を数値に換算することができず、その条件を少し変えただけでもパソコンは全く違う進路を何ケースも出力してくるのである。つまり、二人の入った思考の迷路は、ガスボンベの回収という業務が、海面清掃の特殊部隊に最初から想定されていない事を物語っていた。
「船長、まず沖の島の裏側に行こらぁ」
「了解。ちょっと間揺れるっしょ」
 友が島とは、大阪湾の南入口に当たる地の島と沖の島の二つの島を総称した呼び名だ。杉山は、ゴミの引っかかりやすい西側の沖の島に目をつけた。ここに行くためには、流速の早い友が島水道を渡らなければならない。ちょうど下げ潮にかかっており、わかかぜの小さな船体は急流を遡るようにガタガタと激しく揺れた。
 やっと小さな岬に到達したわかかぜは、梶を大きく右に切った。風ひとつ無い静穏な入り江が、深い原生林の山の方からゆっくりと開けてくる。海は一転静粛になった。わかかぜのエンジン音に驚いた海鳥の群れが一斉に飛び立ち、水面からボラが跳ね上がる。
 次の瞬間、秋山らの歓声が船内に響いた。
「やったぁ、ボンベや、一発やしょ!」
 確かに、均一でおびただしい数の物体が、河川水で薄茶色に染められた入り江を覆い尽くしていた。しかし、歓喜する三人とは対照的に、双眼鏡を覗く杉山は黙っていた。
「ちがうっしょ。こらぁボンベやないやして」
 双眼鏡を降ろすと杉山は腕組みをした。
「え、じゃあ杉山さん、こんなぎょうさん何やして?」
 不安な表情で秋山が聞く。
「何かはわからんけど・・・・・・。とにかくもう少し寄ってもらえるかのし」
 腕組みをしたまま杉山は首を傾げた。
 わかかぜはゆっくりとその夥しい数の物体に近づく。目前に迫ったその物体群は水面にぽっかり浮かび、まるで満タンに空気を入れた革袋のようだった。近づいたわかかぜの航跡波で裏返ったその革袋の端に、膨れあがって引きつった動物の顔が付いているのを発見した四人は思わず口と鼻を被った。
「うぐっ」
 杉山が顔を背けて言った。
「豚や」
 星子が金切り声で悲鳴を上げる。
「こ、こりゃこの世じゃないわして。あの世やしょ。この入り江は」
 パンパンに膨れあがった夥しいブタの死骸は、不気味にひしめき合って揺らぎながらわかかぜの方に近寄ってくる。どこから集まったのかカラスの群れがギャーギャーと騒ぎ始めた。
 しかめっ面の秋山船長が、慌ててわかかぜのユーターンを始めた時だった。
「あっ、あかなっしょ。こりゃ、えらいことになったっしょ!」
 秋山が動揺して皆の顔を見回す。
「どないしたんやしょ」
「両側のペラになんか絡まったんやしょ」
 全員の眉が一斉に曇った。秋山が何とか外そうと逆回転を試みるが巧くいかない。わかかぜは完全に動きを止め、豚と一緒に潮にゆらゆらと揺れ浮いてるだけの状態となった。
「おい、両方とも絡まったんかっしょ」
「そ、そうやいしょ」
 両方の回転計の針はほとんど動いていない。
「まさかペラに絡まったんは・・・・・・」
 皆考えていることは同じだった。そこかしこにあるのはブタの死骸である。カラスの騒ぎも収まらない。
「とにかく片方だけでもはずさんことにゃ難破船やしょ。誰が潜るかして」
 そう言って杉山は内田の方を見た。
「勘弁してくれっしょ。こんな恐ろしいとこ」
 内田は困惑の表情で狼狽えた。秋山はせかせかとギヤを入れたり切ったりを忙しく繰り返している。
「私が潜ります」
 星子は作業服のボタンを外し始めた。素潜りには自信がある。確かに不気味だったが、強引に着いてきた自分がここで役立たなければの一心だった。
「ちょ、ちょっと待てっしょ」
 杉山が顔を赤らめて星子を咎める。
「潜水士船でしょっちゅう海に潜ってましたから」
 言う間に星子は、真っ白な肌を露わにしてブラジャーだけになった。
「ちょっちょっと待て、ワイが潜るっしょ。ワイが」
 目のやり場に困った様子のまま内田が慌てて服を脱ぎだした。
 その時、突然ゴゴーン! ゴゴーン! ゴー! とエンジン音が鳴り響いて船が前に進んだ。勢いで三人が後ろによろめくと、ズボンを脱ぎかけていた内田は無様にひっくり返って座席に膝を嫌と言うほどぶつけた。
「おぉ、取れた。片方だけやけど取れたっしょ」
 秋山は嬉しそうな顔で振り向いた。が、星子の白い肌を見るなり慌てて目をそらした。星子が恥ずかしさに気づいて背中を向ける。内田は転倒したまま右膝を抱えて悶絶していた。星子が急いで作業服を着用する。わかかぜはゆっくりと前進を再開した。片方の回転計の針は止まったままだ。片方のスクリューだけなのでスピードは全然上がらない。
「右側だけやいしょ」
 秋山は回転計を見ながら杉山に向かって顎をしゃくり上げた。
「まぁ、ぼちぼちでも前向いて進んでくれたら御の字やいしょ」
 杉山が苦笑いをすると、再びゴゴーン! ゴゴーン! ゴー! と大きなエンジン音がした。もう片方の回転計の針が大きく振れている。
「おお、取れた取れた左も取れたいしょ」
 その声に杉山が安堵のため息をついた。秋山は確かめるように徐々にエンジンを全開にした。わかかぜが猛スピードで薄茶色の潮を蹴り上げる。その泡にボラが何匹かライズした。
「まだ、見放されてないっしょ」
 杉山は大きくため息をつくと皆の顔を見渡し、金比羅山の守り札を顎で指した。
「そう言うと、紀ノ川の岩出の河川敷にでっかい養豚場があったっしょ。あれが流されたんとちゃうか」
 機関長の内田が、打った膝をさすりながら遠ざかる入り江の方を振り返った。後で分かったことなのだが内田の言うとおりであった。岩出町の河川敷にある養豚場が、洪水で流されて豚四百匹が海域に流出していたのである。
三人が入り江を恐怖の余韻としている間も、杉山だけはボンベの行方の手がかりとして考えていた。
「風の影響を強く受ける豚の死骸が、あの入り江か」
 杉山が独り言のように呟くと、それに答えるように船舶電話が鳴った。
「杉山さん、中川係長からです」
 内田が取り次ぐ。
 杉山は出掛けのことがあったので、少しバツが悪そうに電話に出た。
「杉山ですが」
「朝はどうも。現地はどうですか。見当付きそうですか」
「今、沖の島の西裏側やしょ。そこは豚の死骸だらけやして」
「ええっ、豚を発見しましたか! その情報がほしかったんです。流れたLPガスボンベの充填工場は養豚場の向かいにあったのです。つまりボンベと豚が流れた時刻はほぼ同じです。そして、ボンベの専門家に聞いたところ、栓が破壊されない限り、ボンベは頭の部分だけ海面に出してほとんどが没水しているとのことです。つまり、ボンベの移動は表面流にのみ支配されていると言うことになります。その入り江に豚の死骸があるというこは・・・・・・」
「そしたら係長、ボンベはもっと北に移動して・・・・・・」
「そう、大阪湾の友が島反流に乗って東に回って行くんじゃないでしょうか」
「そうか分かったっしょ! 今は引き潮やしてボンベは地の島と沖の島の間の中瀬戸を南下してる最中やしょ」
「うん。杉山さん間違いない。きっとその通りですよ」
 杉山は電話を切ると、確信するような口調で秋山らに言った。
「中瀬戸に急行やぁ」
 わかかぜは艫を沈めて舳先を持ち上げると、勢いよく発進した。
 十分ほどで目的地にさしかかると双眼鏡を覗く杉山の視界に、銀色に煌めく一筋の帯が現れた。
「あったでぇボンベやぁ、間違いない」
 杉山は自信たっぷりの顔で体を小揺すりすると、船内は歓喜に包まれた。
「星チャン、直ぐに事務所と紀州丸に連絡いれっしょ」
 言いつけると杉山は、操船室を出てわかかぜの舳先に仁王立ちした。
 近づくにつれて、船内の三人にもガスボンベがはっきりと見て取れるようになる。
 三百本のガスボンベは引き潮の激流の中をひしめき合い、ガチン! ゴチン! と鈍い金属音を奏でながら南下していた。
 それは太陽に照らされてギラリギラリと不気味に光を反射し、一定間隔で海面への隆起と沈降を繰り返しながら、まるで何か巨大な生き物のように前進している。
 星子は体はかってに震えた。秋山と内田はガスボンベの群れに圧倒され呆然と見入っている。言葉では表現のしようのない光景に押し黙らざるを得ないのだろう。わかかぜはエンジンを止め惰性で前進していた。不用意にガスボンベとの距離は縮まっていく。
 突如、ガスボンベの帯がわかかぜを威嚇するかのように膨らんだ。
「あ、危なっ!」
 秋山は、とっさにエンジンを吹かして梶を切った。
 瞬間、ゴォーと言う唸りを上げてわかかぜの舳先が迫り上がり、杉山がバランスを崩して手摺りにしがみついた。わかかぜが艫を支点にして一八〇度旋回する。波飛沫が気泡になって舞い上がり危機一髪で衝突は回避された。
ガスボンベのぶつかり合う音は、どこまでも追いかけてくる。その音は、わかかぜのエンジン音と底重たく共鳴し、船内の空気を震わせていた。
 バランスを失って転んだ星子は痩身を震わせながら唇をかんだ。
「絶対に回収してやる!」
 星子は床に手をついたまま振り返ると、ガスボンベを睨みつけた。
「今は危険すぎるっしょ。ボンベが全て中瀬戸をつききって、動きが収まってからやして。それまで後をつけて行くんやして」
 慌てて船内に戻った杉山には、発見したときの笑顔は全く失われていた。遠方に知らせを聞きつけた紀州丸の姿が見えると、わかかぜは紀州丸へと向かう。杉山と星子は回収作業のため紀州丸に乗り移った。
紀州丸の周りに知らせを聞いた漁船らも続々と結集する。
激流するガスボンベの群は中瀬戸の南沖に達すると、取り巻く船団を蹴散すように大きく西に蛇行しようやくその動きを止めた。
万を期したかのように紀州丸の船内放送が鳴り響く。
「回収準備」
 杉山の怒鳴るような言い回しに、船員達が雄叫びを上げて奮い立った。
 星子の身震いはいつの間にか止まっている。
 紀州丸がゆっくりとボンベの群に近づくと、その様子がはっきりと見て取れるようになった。船員の誰もが異様な光景に言葉を失う。薄茶色の海に、三百本もの夥しいガスボンベの頭が揺れていた。あちこちで数本のボンベ同士が、喧嘩でもするように競り合って激しい衝突を繰り返している。その音がガチンゴチン! と頭蓋骨にまで響いてくる。
「はん! ボンベ地獄やいしょ。ワイの死に場所や」
 ボンベ群を睨んだまま音ヤンの巻き舌が鳴った。
「死ぬんやったら回収してから死にくされっ」
 杉山が目をつり上げて不適な笑いをみんなに返した。
 と音ヤンが揺れるデッキを転がるように走りだす。紀州丸の舳先に立った音ヤンは、空を舐めるように見上げると思いっきりケンツキを天に突き上げた。槍のように研がれたケンツキ先端の金具が、陽光を浴びてギラリと光り返す。舳先で爆ぜた飛沫が虹となって音ヤンの体を包んだ。
「うらぁ! やったらあ! やったらあ! やったらあ!」
 音ヤンは、ボンベの群れに向かって拳を突き出すと大声で怒鳴り続けた。
 皆の気合いが頂点に達し、ガスボンベの回収作業が始まった。
 杉山も加勢して三人一組となってボンベの回収に当たる。
 まず一人がボンベの頭を慎重にケンツキで引っかけて寄せると、残りの二人もケンツキを引っかけて三人でデッキまで持ち上げた。他の漁船らが回収を躊躇する中、紀州丸だけが回収の要領を得て重さ三十キロもあるボンベを次々と引き上げる。星子も男の乗組員に引けを取らぬ気合いでボンベの回収に臨んだ。過酷な作業が延々と続き、徐々に腕の力が次第に失われていく。一つ引き上げるたびに背骨がきしんだ。次の一つで体の関節がバラバラに砕けるかもしれない。星子の喉はヒューヒューと小さな息を刻んだ。誰も休もうとしない。目の前のボンベ群を次々と引き上げる。景色がグルグル回った。もう限界や、と何故か茜の顔が脳裏に浮かぶと星子はふと気を失いそうになった。
「あ、あかん、ほんまに死ぬ。限界や一服しよら」
 荒い息を刻んで音ヤンが崩れるように尻餅をつく。
 既に二時間程経っていた。海上のガスボンベは半分ほど回収されている。その時、紀州丸の頭上の旗がバタバタと激しく音を立てて風にあおられ始めた。
「あかん、マゼやしょ、マゼが来るっしょ」
 江口が、肩で息をしながら南方に浮かぶ雲を不安げな目で見上げた。
「マゼが来る前にもうひとがんばりや」
 杉山が皆に叫び散らした。船員達が再び配置につく。回収の動きは更に激しさを増した。
 だが、やがて紀伊水道は凶暴なマゼの海へと化身していった。
 いきなり強風を受けた紀州丸の船体が大きく傾く。ガッチーン! と強烈な金属音と共に回収したボンベ二本が床にたたきつけられて転がった。
 とっさに、江口と満ヤンが転がるボンベに飛びつく。
 江口の体は、引きちぎられるほどボンベに腕を引っ張られて止まった。鼈甲のメガネは吹き飛び、デッキで擦れた作業服がよれよれに縮れあがっている。満ヤンはボンベを抱えたまま腰を落とした状態でデッキを滑り、船体の支柱に背骨を嫌と言うほど叩きつけられた。衝撃でヘルメットがぶれて顔を覆い隠す。
「大丈夫かァ」
 杉山の声に満ヤンはボンベに抱きついたままヘルメットを上げると、無表情でこっくりと頷いた。
 その時、海上のガスボンベが再び鈍い金属音をガチンゴチンと発しながら蠢き始めた。
「あかん、また、動き始めたっしょ」
 音ヤンが、デッキに四つんばいになってボンベの群を恨めしそうな目で睨みつける。
「上げ潮やしょ。上げ潮が始まったんやぁ」
 杉山が目を剥いた。
「あかん、星チャン。もう無理や止めとけ。一時中止やして」
 ボンベにケンツキを掛けて、船体に引き寄せる星子を上ヤンが止めた。
「せっかく掛けたんや。こ、これだけは上げましょうよ」
「よっしゃ、これだけや、星チャンこれで最後にしょう」
 星子の引き寄せたボンベの取っ手に、音ヤンと上ヤンのケンツキが引っかけられて引き上げようとしたその時、再び紀州丸の船体が大きく傾いた。
 同時に、音ヤンと上ヤンのケンツキがボンベからカシッという音と共にはずれて二人とも後方にしりもちをつく。
 次の瞬間、ガスボンベに引きずり込まれるようにケンツキを持った星子の痩身が軽々と宙に舞う。
 ザッバーンという激しい水飛沫と共に、星子はマゼの荒海に投げ出されてしまった。
「えらいこっちやー、こっちに泳げー!」
 手摺りから身を乗り出した音ヤンの絶叫が、荒くれる波飛沫にかき消される。
 気が付くと星子は、救命胴衣の浮力を借りてガスボンベの群の中に浮いていた。目の前で踊り狂う三角波が、紀州丸の船体を見え隠れさせ、近くでボンベが激しくぶつかり合う金属音が鼓膜を刺している。
だが、星子は自分でも不思議なほど恐怖心が沸いていなかった。
 すぐに紀州丸からロープに結わえられた浮き輪が投げられたが、簡単にマゼに押し返される。星子の体は紀淡海峡の強い上げ潮に翻弄されながら流された。音ヤンが泣き顔で四つんばいになって叫んでいる。星子は何か手探りをするようにただ両手を掻いてボンベの狭間を彷徨っていた。
 満ヤンがケンツキにロープを結わえ付けやり投げの体勢に入いる。
 投げ誤ったら星子の体に突き刺さってしまう。
 誰もが息を飲んだ。
 だが、満ヤンを止める者はいなかった。
 他に方法がなかったからだ。
「星(ほし)ー、星(ほし)ー」
 絶叫しながら満ヤンは星子がこちらを向いたのを確認して投げの体制に入った。助走をつけ体を弓のように大きく撓らせると、空手の気合いもろともケンツキを投げ飛ばす。
「セイヤーッ!」
 マゼを切って放たれたケンツキは、放物線を描いて星子の方向に飛んでいく。ケンツキは星子の間近にあるボンベに命中すると、カン、カンと乾いた音と共に着水した。
 星子はそのケンツキを死にものぐるいで掴んだ。掴むと星子はケンツキから素早くロープを外し自分の体に結わえた。
 紀州丸の船員達から思わずため息が漏れる。しかし、安堵する船員達とは裏腹に星子は意外な行動を始めた。
 ケンツキを持って、ボンベを追いかけ始めたのである。
「こら、星チャン止めっしょ」
 江口が叫ぶ。
「あのぉ小娘がぁ」
 満ヤンは目を釣り上げると思いっきりロープを引き戻した。満ヤンの引っ張るロープに音ヤンと江口と上ヤンも加勢する。
 しかし、星子は腕を掻いて抵抗した。
 激流に流されるガスボンベの群れの中で、星子は髪の毛を振り乱し狂ったようにケンツキを振り回す。
「一本でも多く回収するんやして」
 命すら落としかねない状況の中で、星子の頭の中を使命感だけが支配していた。星子のケンツキがボンベの栓に引っかかる。星子はボンベの重みでグングン流された。星子の頭が夥しいボンベの群れに隠れてしまう。
「止めてくれー、セイコ、止めてくれー」
 音ヤンが力のない声を絞った。
「ロープづたいにワイが行く」
 江口が服を脱ぎかけた。
 杉山が慌てて躁船室に駆け上がる。
「こぉらぁっ星子。止めっしょっ。ケンツキの手を放せ。命令やして!」
 杉山の雷のような怒鳴り声が、紀州丸の拡声器から海上に何度か響き渡った。やっと星子の動きが止まる。激しくぶつかり合うガスボンベだけが、上げ潮の激流に乗って遠ざかっていった。星子の頭だけが波間に揺れている。
 星子にはもはや寸分の力も残っていなかった。
 船員達によって運動会の綱引きのように引っ張られる星子の体は、紀州丸に背を向けて何の動作もなく、まるで回収される浮遊ゴミのようだった。
 紀州丸の船体に近づき、みんなの顔がはっきり見て取れるようになってから、星子はやっと自分のしたことに気がついた。流れ去ったボンベのことで一杯だった頭の中が、今度はみんなに迷惑をかけて申し訳ない気持ちで一杯になる。
 海中から顔だけ出した状態で、「すいませんでした」と神妙に星子が謝ると飛沫でボタ濡れになったみんなの口元がやっと緩んだ。
 上半身裸の江口と、泣き顔の音ヤンが同時に手をさしのべた。江口は音ヤンに遠慮して手を引っ込める。星子は海上から音ヤンの手をしっかりと握りしめた。
「セ、セイコ・・・・・・」
 音ヤンはそう言うと、直ぐに「星チャン」と言い直し、星子の細い腕を掴み返した。星子は軽々とデッキに引き上げられると、すぐに音ヤンら数人に抱きかかえられるように船室に運ばれた。
 ずぶ濡れの星子に男用のパンツやシャツが渡される。星子は着替えると、蓑虫のように毛布で体をくるみ長座席の上で膝を抱えた。音ヤンがタオルを重ねて枕をつくりそっと口を開く。
「星チャン。また明日があるんやして、しばらく横になっときやし」
 音ヤンのがらがら声が星子の耳を優しく震わせた。船室を立ち去ろうとする音ヤンに星子が透き通った声で呼びかける。
「音ヤン・・・・・・」
 音ヤンは足を止めて星子の方に振り返った。
「あたしセイコでええよ」
 と、星子がわざと聞こえないような小さな声で頭を下げると、音ヤンはまたトボトボと歩きながら船室を出て行った。
 紀州丸は波に突き上げられ激しく揺れている。星子は膝を抱えたまま丸窓を見上げた。ヒューヒューとマゼが唸り声を上げて吹き付けている。星子の体は、やっと恐怖心を思い出したようにガタガタと震え始めた。
紀州丸が小さな船体を振動させながらゆっくりと転船している。ふと、丸窓に黄金色の満月が揺れた。濃いちぎれ雲が流れていく。
 星子はその雲に満月が隠されるのを見届けると、ゆっくりと目を閉じて横になった。

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