#06 ほんとうに何かをわかっている人間なんて一人もいない
ここでキツネの話。
実は、キツネは未来人ではない。いや、未来人なのだが、同時に現代人なのだ。少し時間を遡ろう。
彼女は2019年の11月ごろから、仕事で中国にいた。彼女は旅行雑誌の記事を書く、フリーのライターだった。そして、その時彼女は潔癖症ではなかった。
キツネは中国の武漢にある、「武漢東方建国大酒店」というホテルの712号室に宿泊していた。「酒店」という名称でも、ここではホテルなのだ。その部屋の窓からは、多くの人がうごめく海鮮市場を見下ろせた。彼女は海鮮市場での観光を終え、部屋にもどるとそのままベッドに横たわった。彼女はとても疲れていた。
目がさめると、キツネは自分が2971年に存在していることに気づいた。
そして味わったことがないほどの悪寒に襲われていることにも気づいた。
自分の体温が人生最高温度を記録しているだろうことにも気づいた。
まるで水面で顔を出したり沈めたりしているほどの息苦しさにも気づいた。
体は小刻みに震え、それを止める方法はないようだった。
2971年に存在してから初めてキツネが能動的に試みた思考は、「人間は自動車なんか作るべきじゃなかったんだわ」というものだった。彼女は、人間の環境破壊によって、2971年までに地球の空気はこれほどまでに—ほとんど息ができないほどに—汚染され、酸素が薄くなっていると考えたのだ。やはりパリ協定は破綻したんだわ、とも思った。2019年の地球が恋しくなった。あの緑いっぱいの地球が。
なぜキツネが2971年に存在していることに気づいたかというと、人々が、彼女にはまったく理解できない言葉で会話していたからである。彼らは特に苦しそうではなかった。みんな得体のしれない素材の、ぴちぴちの全身タイツのようなもので体をコーティングしていた。色は様々だった。向こう側が透けて見えるようなタイツの人もいた。そのような未来人の中に、キツネが男なのか女なのかを判別できる者は一人もいなかった。
一通りこの世界を認識したあと、彼女は、2019年から2971年に世界が通過した時間を、自分も通過したのだ、という感覚を有していることに思い当たった。彼女はその経過を実際に目撃したわけではないが、とりとめもなくそれを知っていたのである。彼女の中の潜在意識のようなものが、それらを(2019年から2971年に経過した時間を)含んでいた。漠然とそういう感覚があった。
それは箱に似ていた。具体的に何が入っているかは、その箱を開けてみないとわからないが、どのようなものが入っているかは確実にわかっている、そんな箱が彼女の中にある、という感じだ。
キツネは真っ平らなコンクリート(だと思う)で出来た大きな広場にある、ベンチ(だと思う)の上で寝ていた。ベンチは無機質だが、とても体にフィットした。ジェルのように、変幻自在に体にフィットしてくる。
そこはおそらく公園のようなものだと思うが、21世紀と違うのは植物が一つもないという点だ。
キツネはそこから起き上がることができなかった。
体が全く動かなかった。相変わらず息は苦しく、体は小刻みに震えた。高熱も続いているようだった。そしてキツネは、今や嗅覚も失われていることに気づいた。しかし、2971年では、世界から匂いすら失われている可能性もあった。でもキツネにとって、それはどちらでも同じことだった。
2971年では、空間のいたるとこに数字が浮かんでいた。日付や時間を表示しているものもあったが、それ以外のほとんどの数字が何を示しているのか、キツネにはわからなかった。
キツネは一日に一度、透明のカプセルのようなものをかぶせられた。
円柱を縦に半分に切ったような、かまぼこのようなカプセルで全長は2mほど。素材はプラスチックのように見えるが、鉄ほどの強度を持ち、2019年の世界中で販売されているうち一番薄いコンドームより薄い。
その半円柱カプセルは、2019年でいうところのドローンのような(もっとシンプルで洗練されたデザインではあるが)空飛ぶ蜘蛛が運んできた。そしてキツネの体内時計1時間ほどで、どこからともなく現れた空飛ぶ蜘蛛が、その四本の脚に当たる部分をピタッとカプセルの表面に吸着させ、おそらくそれが保管されている場所へと運んで行った。
コンクリート広場にいる他の人々にも、同じような仕様の物体が、同じようなことをしていた。そのカプセルの形状は様々で、立ったままの人間のためにちゃんとした円柱型のものや、移動できるようなものもあった。
色やデザインも様々であり、人によってそのカプセルを被る時間もランダムだった。おそらくは使用者の嗜好が反映され、タイミングを設定できるようになっているものとみられる。
キツネは二日目、つまり二度目に半円柱カプセルをかぶせられているときに、これは食事だ、と気づいた。それまで何も食べていなかったにも関わらず、空腹を感じなかったからだ。のどの渇きも感じなかった。
キツネが考える通り、カプセルは食事であり、水でもあった。
ただ、ここで付け加えると、そのカプセルにはもっと複雑で多彩な機能が備わっていた。
人間の全血液をサラサラにする機能、2時間のジョギングと、2時間の筋トレと同じ効果を人体にもたらす機能、そして人体から体臭を今後一切発生させないようにし、なおかつこれまでの人類統計上もっとも洗練された香りを今後永遠に付与する機能。1時間の入浴と同じ効果をもたらす機能など。ほかにもたくさんの機能があるが、ここですべてを説明することは控えておく。
我々21世紀人間にとって、時間とは貴重なものなのだ。
キツネは2971年世界に、2週間存在していた。
合計14回のカプセル体験がそれを教えてくれた。
彼女の体調はそのカプセルのおかげでみるみるよくなった。2度のカプセル体験の後には、体調はすっかり回復していた。
そして3、4回と重ねるごとに、それまで感じたことのないほどの爽快感を得、同時に今まで自分の体がどれほどのストレスを抱えていたのかを知り、愕然とした。その適切な比喩としては、「生まれてこのかたずっとおんぶしていた、自分とほぼ同じ体重の人間をおろしたときと同じ爽快感」ということになるだろう。
3回目以降のカプセルはキツネの意思が通じたのか、移動可仕様のものだった。カプセルの中に入ったとしても、中の人間が何か行動を変える必要はなかった。それまでと同じ動きをしても、カプセルは絶対にそれを邪魔しなかった。
キツネはいろいろなところに行った。
しかし自分が地球上のどこにいるのかはわからなかった。
人々の顔や身体つき、肌の色からは、これといった人種による特徴の違いを見出だすことができなかった。
それでも、キツネを奇異の目でみるものはいなかった。というより、彼らは誰も見ていなかった。彼らは常に一人で行動していた。小さな子供からよぼよぼの老人まで、もれなく一人だった。そして、基本的に彼らはいつも微笑んでいた。
キツネは飲食店にもいった。
2971年において飲食とは、生きるための行為ではなく、口の寂しさを紛らわせる行為であるようだった。もちろんどの飲食店にも、一人席しかなかった。
一番の美味を感じたのは、焼きキントレアだった。キントレアは2971年において、唯一の有機野菜であった。
キツネは一人の老人に出会った。もちろん会話は通じなかったが、キツネは彼のことが好きになった。
キツネがその老人と出会ったのは、彼女が2971に存在してから10日目のことだ。それからというもの、キツネはその老人と常に一緒にいた。
老人は2019年でいうところの、路上生活者であった。
2019年の路上生活者と違うのは、彼が飢えていない点と、いい香りがする点、健康である点だった。カプセルはどのような人間にも平等の精神をもって接していた。
キツネはその老人を一本のイチョウの木の下で見つけた。
2971年世界においてキツネが確認できた樹木はその一本のみであった。
イチョウはとても小さく、キツネの身長とほぼ同じ高さだった。
キツネが初めて老人を見つけたとき、彼はイチョウの木を手でなでていた。まるで援助交際をする陰気なサラリーマンのような触り方だった。
「イチョウですね」キツネは久々に言葉を発した。
老人はキツネのほうを振り返り、ほほ笑んだ。そしてキツネには聞き取れない発音で何かを言った。
「何してるの?」とキツネは聞いた。
老人は聞き取れない発音の言葉を発した。とても長い間、老人は何かを言っていた。話が長すぎて、太陽が沈み、あたりが暗くなった。
キツネは真剣にその声を聴いていた。
長い話の最後の言葉が発せられ、世界が無音という名の音に包まれたとき、老人の目から涙がこぼれた。
老人は驚いているようにみえた。
まるで自分の体にこんな仕組みがあったなんて知らなかった、とでもいうように。
キツネは最後の日までずっとそこにいた。
近くを通る人々は今度こそ彼らを奇異の目で見た。
足早に通り過ぎる人々に、老人は銀杏を投げつけた。
キツネはイチョウの木の下で、老人の長い話について考えていた。21世期的なあらゆる世界の言語の取捨選択ののち、それらが統合されたものがさらに繰り返しアップデートされたようなものだということは分かった。キツネが解読できたのは一つの短いセンテンスだけだった。2019年の日本語の名残のようなものが見いだせるセンテンスがあったのだ。それはこう聞こえた。「ヤバイ。マジデヤバイ」
最後の日は突然訪れた。
老人の涙は、あの長い話の後もずっと流れていた。
彼は涙を流しながらすべてを行った。
涙を流しながらカプセルに入り、涙を流しながらイチョウをなで、涙を流しながら銀杏をなげた。寝ているときも、老人の目からは涙が流れていた。
老人の涙が流れ始めて3日後、つまりキツネが2971年に存在してから14日目に、老人の涙はとまった。その時キツネはカプセルの中に入っていた。
老人は微笑み、キツネのカプセルをなにやら外側から操作した。そして、気が付くとキツネは2019年に存在していた。
キツネが2019年に再び存在して初めに思ったのは、「本当に何かをわかっている人間なんてほんの一人もいない」ということだった。
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