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#05 乳酸菌入りの炭酸ジュースが飲みたい

サガンによると、キツネは渋谷区役所にいたということだった。

サガンはつまらない事務手続きのため、区役所にいた。待合室で薄固い椅子に座り、整理番号の呼び出しを待っていると、見覚えのある象牙色のワンピースが目に入った。その中から生えている二本の足は、白いスニーカーを履いていた。

ここで一つ補足しておくと、キツネはそれ以外の服を持ち合わせていなかった。にも関わらず、キツネからはいつもザ・リッツカールトンのロビーラウンジのような香りがした。それに関しても深見は質問した。
「それはどういう技術なんだろう?」
「そんなこと私に聞かないでよ」
深見の知る限り、キツネは一度も風呂に入らなかった。

キツネは大きな男と一緒にいた。サガンによると、男の背丈は2mを超えていたということだ。おそらくこれは嘘だろう、と深見は思ったが何も言わなかった。
その男は欧米人だった。少なくとも側からみるとそうだった。でも本当のところは分からない。彼が日本語しか喋ることができない可能性だってある。

でも結局サガンは、彼が何者かを突き止めることはできなかった。なぜならキツネとその男は、サガンが知る限り互いに一言も口をきかなかったからだ。

二人は「区外から渋谷区への転入手続き」という窓口で整理券を受け取った。そして近くの棚から書類を一枚抜き取り、書類記入用の簡易的な机に向かった。記入しているのはその男だった。机に椅子はなく、みんな立ったまま文字を書いていた。
謎の男は、自分の腰よりも低い位置にある机で文字を書いていた。
「なんだか、ピカソの絵みたいだったぜ」とサガンは言った。

そこでサガンの整理番号が呼ばれ、書類を担当の四角いメガネをかけた女性に見せた。
彼女の表情はその書類よりも事務的だった。

受付から戻ると、キツネと謎の男は消えていた。そのあと、キツネたちの整理番号が呼ばれたが、誰も受付には現れなかった。隣の、帽子から靴までを淡い色でトータルコーディネートした初老男性が、ブツブツと文句を言っていたが、そこにいた誰もがそれを「声」だと認識してはいないようだった。ただ受付の小さなモニターで、赤い数字が何度も点滅していた。

「悪いことは言わない。あれは怪しいぜ」とサガンは言った。「どうするんだよ、巨人が急に出てきたりしたら」
深見は何も言わずに、サッカーを見ていた。

それからも今までと変わらない日々が過ぎた。深見は日中仕事に行き、帰ってきてもキツネはそこでテレビを見ていた。キツネはいつも、新しいウイルスに関する報道番組を見ていた。

その新型コロナウイルス感染症なるものによる肺炎などの疾患について、WHO、つまり世界保健機関がその病名を命名したらしい。
その名も「COVID-19」。悪くない。

日本政府は国内で今後開催される、スポーツや文化イベントの中止や延期を要請した。開幕したてのJリーグの延期が決定され、東京ディズニーランドが休業を発表した。夢の国が閉鎖されたということだ。
そして、UEFAチャンピオンズリーグの延期も発表された。
「知ってるなら、言ってくれよ」深見はキツネに言った。
「知ってどうするのよ」
その通りだ。

「COVID-19」は世界中に広がっていた。インドでは、この未知の感染症に効果があるというデマを信じ、メタノールを飲んだ27人が死亡した。ヨーロッパ各国で死者が急激に増えた。本当にたくさんの人が死んでいた。スペインでは、アイススケート場に死体が並べられた。日本ではなぜかスーパーからトイレットペーパーが消えた。「日本人は何かあったら、真っ先にケツの心配をするんだ」とサガンは言った。ライブハウスやクラブなどが営業を停止し、春の高校選抜野球の中止も決定された。

その間深見は、キツネに対する正しい質問を考えていた。そのうちに世界はどんどん変わっていった。

そして、2020年夏に予定されていた東京オリンピックの延期も決定された。

 
「乳酸菌入りの炭酸ジュースが飲みたい」と言って部屋を出ていってからというもの、キツネは戻ってこなかった。四月四日のことだった。

東京では『緊急事態宣言』なるものが発出され、人々は家の中に引きこもっていた。飲食店やらパチンコ店やら、数々の店が休業を余儀無くされ、多くの中小企業が廃業した。テレビのニュースでは連日、アナウンサーが今日の感染者数を読み上げていた。医療体制は限界を迎え、多くの医者や看護師がウイルスに感染した。病院の廊下には簡易ベッドが並べられ、感染者はそこに横たわり、ただ死を待っていた。

一時間ほど待ってみて、深見はキツネを探しに外へ出てみた。でもキツネはいなかった。思い当たるところは全て探した。徒歩20分以内の全てのコンビニエンスストア、自動販売機、公園。でもキツネはいなかった。



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