野良犬とタオルケット:20230626 日録

  • うっかり徹夜してしまい、一日中気分が悪かった…しっかり寝ないと動けない体質なのは自覚しているというのにそれでも徹夜してしまうの、なんなんだろう…

  • そんなわけで一日中意識が朦朧としていた。

  • 仕事中のBGVとして『君は彼方』を初見。

  • 評判の悪さはかねがね聞いており、じゃあ集中して見なくてもいいしBGVに最適かな…という浅はかな考え。

    • 確かに出来は悪かったのだが、それだけにツッコミどころが多く、結果的に画面に張り付いて見てしまった。流石に仕事が進まないので全体の1/4で視聴を中断。

      • ひょっとして「諦めない気持ち」という見え見えのテーマ一本だけで2時間乗り切ろうとしてる!??それもうちょっとやりようがない???というところでまず引き込まれ、そこからはあれよあれよの超展開で、なるほど退屈はしなかった。

  • 『出会って4光年で合体』の野良犬にエサをやるくだりについてぼんやりと物思いにふける。

    • 野良犬にエサをやっている様子を同級生にチクられて担任から「偽善」と罵られたことで、橘はやとが外界との接点を喪失してさらなる孤独に陥る幼少期のエピソード。

      • おそらく担任の説教は「命に責任を持てないくせに〜」という旨のやつなのだろう、というのは推察がつく。

        • ところで、この説教は橘はやとの出生を巡るナラティブとパラレルである。つまり、捨て子である彼にまとわりついていたであろう「責任取れない人間は子供を産むな」というナラティブと。(※このナラティブ自体の妥当性はここでは論じない)

          • 「エサをやる人間」と「無責任な親」を等号で結ぶのなら、「エサを与えられた野良犬」と「生まれてきた子供」もまた等号で結ばれてしまう。

          • この図式の上では、「エサを与えられたところで野良犬が不幸になるだけだ」という語りからは「愛を受けずに生まれてきた子供は不幸になるに決まっている」という語りが導き出され、また「野良犬なんてろくなものではない」という語りからは「これだから捨て子は(ろくな育ち方をしない)」という語りが導き出される。とりわけ後者は市役所職員の語りとして実際に作品中に現れる。

          • はやとが執拗なまでに避妊にこだわるのは、彼がこのナラティブを内面化しているからだろう、と考えられる。

            • 物語の終盤、捨て子であるはやとも、たとえ布切れ一枚であったにせよ尊厳を見出されて生まれてきていたのだという語りが提示される。

            • そしてアルファケンタウリでの交合を通じ、はやとはとうとう自分自身にかけられた呪いから抜け出すことができたのだろうことが読者には伝わってくる。

      • ここで野良犬の話に戻る。

      • 「愛せないなら産むな」と「責任を持てないならエサをやるな」がパラレルであるのなら、『出会って4光年で合体』を通じて得られた呪いの解き方によって、「偽善」と罵られたあのときの橘はやとを救うことができるはずだ。

        • タオルケットを敷いておきたいと思う母親の思いは、エサをやりたいと思ったはやとの思いとパラレルである。

          • はやとの母ははやとを愛していたのだろうか。それは分からない。親としての責任も、きっと果たせていない。だが、とにかくタオルケットを敷いたということは確かな事実なのだ。そうしなければならない、と彼女には思えたのだ。

          • 一般化するならば、これは、目の前に立ち現れている、傷ついた/痩せこけた/脆弱な/vulnerableな目の前の存在を救いたい、という思いである。

            • 現代倫理学の用語法を導入するならば、これは典型的なケア倫理、ないし徳倫理学の語りである。あるいは、孟子を援用しても良い。

          • 義務論的観点では抜け落ちてしまうほんのわずかな優しさを、偽善ではなく優しさであると承認してみせること。それが橘はやとの人生を承認する第一歩なのではないか。

  • 安丸良夫『出口なお』を読み始めた。困窮した農村に暮らす凡庸な老婆が、「神がかり」によって、寒村の女性としてこれまで背負ってきた苦しみを意味づけ直し、世界の矛盾を糾弾するに至る過程を論じる本。


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