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人と人とのつながりを越えて(中)

仙台での経験から

画面の向こう側だった3.11

2011年3月11日はまだ高校2年生だった。
丁度、試合で膝を怪我して整形外科に通院していた時。
今でも鮮明に覚えているのは、急に揺れだして窓ガラスが軋み出したこと。
看護師の方が「窓には近づかないで下さい‼」と強い口調で、中央の待合に集められた。

揺れたとき、私は東海地震が来たものだと思っていた。
今までこれほどの大きな揺れを感じた事はなかった。

揺れが治まってからしばらくして、テレビ画面の向こう側の景色が切り替わる。どうやら静岡県内ではなさそう。
目の前で流れたのは、沿岸部から押し寄せる津波。
それが東北地方の様子だと知ったのは、すぐ後の事だった。

仙台に降り立つ

何だかんだあって、ぎりぎりで高校を卒業して大学生になることができた。
大学受験も、首の皮一枚で繋がったところが多分にある💦
そして、そんな出来損ないの私を拾ってくれたのが、仙台の大学だった。

初めて降り立つ仙台駅。
駅は浜松駅とは比べ物にならない程大きいが、所々震災の爪痕を残していた。目の前の通りには自衛隊の車両が……。
本当に信じられない光景が、そこにはあった。

東海地震がいつくるか分からない、と叫ばれる浜松での日常。
しかし、私はそんな震災の怖さを知らないまま大学生になってしまった。
実際、小中高と防災訓練はしていたが、真面目に取り組んだことはなかったかもしれない。まぁ、震災が来るなんて思ってもないからかな😥

被災地で活動したことがつながる

大学に入ってから、友達と被災地へのボランティアに出かける。
沿岸部の砂浜……荒浜地区だった記憶がある。
一面ほとんど、何もないことにショックを受けた。

被災地ボランティアで手渡されたのは、大きめのスコップ。
埋まってしまった小さなごみや瓦礫については重機では取り切れないとのこと。最終的には人の手で取るのだと知った。
大きな木材などを運ぶとばかり思っていた。
復興はまだ始まってもないような感覚にとらわれた。
頻りに「頑張ろう 東北」の言葉が筐体に浮かぶが、実際にどれだけの人々が頑張っている中で、復興にもたどり着いていないのか。

浜辺周辺をそこかしこ掘っては、プラスチックや陶器の欠片をすくう。
果てしない活動だと思った。きりない活動だと思った。
でも、それが次なるステージに移行するには必要なこと。

私はそんなことも知らず、仙台に来た。

休憩時間、依頼主のおばあちゃんと話すことがあった。
静岡から来たと話をすると、特に驚いた様子はなかった。
「静岡の人はたくさん来てくれたからね。やっぱり東海地震に備えていて、防災に意識の高い人が多いのかね」
少なくとも私はそうではなかった。
しかし、その経験が今も私の中で生き続いていることに違いはない。

だから、今回の能登半島地震があったときも他人事だとは思えなかった。
また、夏に行けたらなと思っている。
将来的には、子どもたちを引き連れながら、実際に被災地を回りながら防災について話しができるようになれば嬉しく思う。

みんなで防災を考えるときに、かなり参考になる一冊

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