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病気とはなにか

こんにちは、皆さん。最近、特定の医学的な用語や診断名が日常の会話やニュースで頻繁に取り上げられることが増えてきましたね。一方で、これらの用語の本当の意味や背景、そして現代社会での役割について深く知ることは難しいものです。今回のポッドキャストでは、これらの言葉がなぜ急速に広まったのか、それに伴う社会的な影響や変化について考えていきます。お楽しみに。

書き起こしされた内容およびそのまとめは、OpenAIの書き起こし及び要約機能を使用して作成されました。

エピソード

書き起こし

皆さんね、こういう言葉を聞く機会が増えたんじゃないかなと思います。

ニュースとかでもね、果樹あるというとあれなんですけど、

もしかしてこういう、この辺に当てはまる人は、

ADGなんじゃないか、とかね、アスペルガー将校軍なんじゃないか、

みたいな言われ方がすることも増えましたよね。

で、なんでこの言葉の使われ方が増えてきたのか、

こういう言葉がもっと増えたんじゃないかなと思います。

例えば、アスペルガー将校軍、アスペルガー将校軍、

で、なんでこの言葉の使われ方が増えてきたのか、

こういう言葉が広まってきたのかということをちょっと考えてみたいと思います。

というのも、最近よく、いや俺ADHDでさ、とか、

いやあいつアスペだよ、アスペじゃねえ、みたいな、

そういうね、カジュアルな使われ方がすごい増えてきて、

いや、俺アスペだからわかんねえよ、って気軽に言う人も増えてきているんだけど、

じゃあそれが、なんでね、結構専門用語だと思うんですよ。

そういう言葉が、本来の意味を超えて使われてきているなという部分もあって、

例えば確定診断とか受けたわけではないけど、使っている人とかも増えていて、

それがどういう背景を持っているのかなということについてちょっと考えてみたいなと思います。

僕はこれ2つあると思っているんですけど、

1個は、実際にそういう症状とか、そういう診断を必要としている人からの要請があったというか、

そこの人からのニーズがあったというところですね。

例えばそれって、ちょっと前だとサイコパスという言葉が結構多く担っていたと思うんですよね。

今ADHDだったり、アスペって特に呼ばれる、そういう挙動のところっていうのは、

サイコパス、ソシオパスみたいな、そういうところの言葉が言われていたところで、

特にその2つの両方とも言葉の意味としては、僕が小学校とか中学校ぐらいの時だと、

ほぼほぼ犯罪者と同じような意味合いで、ニュアンスとしてはね、

サイコパスイコール、猟奇的な殺人者、昇降軍的なニュアンスで使われていたと思うんですよね。

で、例えばちょっと自分の中で、そういう診断みたいなのがあるわけですよ、ネットとかでね。

そういうのが、誰でも自己診断みたいなのができるようになった時代ですよね、このネットっていうのは。

そうすると、専門家じゃないのに、マニュアルみたいなのがあったとして、

それに全部当てはまるから、サイコパス、サイコパスという判断はされないと思うけど、

問題があるかどうかっていうのは、専門家の人にちゃんと見てもらった方がいいわけなんだけど、

個人で自分のことを自己判断できるようになったわけですよね。

そうすると、自分は、10年以上前の話ですよ、自分はサイコパスなんじゃないかとか、

このままで大丈夫なのかなっていうふうに思う人が出てきたわけだから、すごい荒い分類があったわけだよね、そういう。

AT-HTみたいなものも分類としてあったんだと思うんだけど、よく知られていなかったと。

それが、そういう言葉の分類が分かることによって、

これっていうのは単純に、こういう習性のある、こういう癖のある人のことの一部を今までサイコパスって言ってたんだなっていうことが分かったりするわけですよ。

なので、自分のことをADHDっていうふうに、

サイコパスって言葉はもう、

だから、自己判断的なところに今までは委ねられていたわけよ。

自己判断だったり、社会的に、この人サイコパスだろうとか、自分サイコパスかなって思わさせるようなことしかできなかったわけなんだけど、

明確に、ちゃんと専門家が、この人はADHDの症状を持ってますっていうふうに判断する人が、

そういう診断を下すことができる人が出てきたことで、

自分がADHD的な症状を持っているかどうかっていうのを、

自分が他の人と違うようなことをしていたときに、

自分は変な人なんじゃなくて、ただADHDを持っているだけの人なんだっていうような、

自己認識を変えることができるようになるよね。

さらにそういうふうに、専門的に、

これはね、例えば、症候群とか、ちょっと病気に近い、病気というか症状に近い形で言われることが多いんだけど、

じゃあなんでそういう使い分け方がするかっていうと、

マサツがどこかで起きるっていうことがあるわけなんですよね。

ちゃんとその専門的に、この人はADHDですっていうのが、

その専門の人からその診断を受けることができれば、

その人が、

その診断を受けることができれば、

そのマサツが起きやすい場所とか、マサツがどういう形で現れるかとかっていうのを、

その専門知識も、向こうは持っているはずなので、

そうなると、しっかりとした診断を受けて、

治療だったり、完全に治ったりするのかわかんないですけど、

あと、対処策みたいなものも受けることができるということなので、

自分でね、だから、そういう言葉が広まったっていうことは、それ自体は、いい面もこういうふうにあるのかなっていうふうに思ってます。だから、自己認知としてを変えることができる。自分は変なんじゃなくて、AD値で持っているだけっていう、そういうふうに認識を変えることができるし、それ自体は何もおかしなことはないというか、別にそれ自体本来変なことではないよね。誰でもね、だからそれは一つの特徴であると思うんだよね。ただ、この世の中は理想的な世界ではないので、そういう人の周りに摩擦とかノッキングが起きやすい社会ではあるかもしれない。そういう場面もあるかもしれないし、実際あるっていうのは、事実としてあるのかなと思うんだけど、そこを変えていこうとかっていうのが、今の法説とかそういう部分だったり、法説的な社会にするとか、インクルーシブルとかって言葉も使われるけど、そういう部分なのかなと思います。これが一個ですね。それがそういうところで、診断を必要としている人のニーズから広まっていった言葉かなと思います。もう一つは、これはちょっと問題かなと思うところなんですけど、だからさっき言った二つでいるところの、いや俺はアスペだからさっていう人と、それは実際確定診断とか受けている。ここもね、あんまりハードルを高く設けすぎない方がいいと思うんだけど、ある程度本当にそういう症状がある人で、自分はアスペだからっていう人と、あとが一個目の例で、いやあいつアスペじゃんとか、あいつADHDじゃんって言う人も増えてきたと思うんだよね。特に結構カジュアルにちょっと使われる場面を見ますよね、聞きますよね。そんなに頻繁には、特に、もちろんメディアでは、多分コンプライアンスなんて程度では済まないから今だと聞くことはないけど、特に身内同士とかで使われることが多かったり、まだするのが現実なのかなというふうに思います。これは別にADHDとかアスペとかそういう言葉をカジュアルに使うとかっていうのじゃなくて、他のあらゆる言葉、例えば外国人マイノリティとか、そういうね、男女とか、セクシャルなマイノリティとか、いろんな大多数とマジョリティ・マイノリティ的なところで考えた時に、マジョリティの方にももしかしたら当てはまるかもしれないけど、主にマイノリティの方に当てはまると思いますっていうふうに考えを巡らせて喋っていただいて、一瞬何を喋りたいかが、主題も含めて一瞬忘れかけたんだけど、だから今回は他の人をアスペ・ADHDというふうに呼ぶ人に対してですね。これは単純にね、自分と違う挙動をする人とか、自分と違う考え方をして、違う行動を取る人に対して、その行動を理解できないから、考え方がわからないから、それを理解するつもりがないから、アスペ・ADHDというふうに呼ぶっていうパターンで広がっていく。自分の理解を超えたものに対して、これは何回もこのポッドキャストで言っていることだけど、理解を超えたものに対して、自分の理解の範疇から超えているのにもかかわらず、今自分が持っている理解力でそこに届かせようとする。その時に自分の実際の理解力と、それを理解するに必要な理解力の差を埋めるための言葉として、アスペという言葉が使われていたりとか、ADHDという言葉が使われている。だからその場合は適切な診断を必要としている人を形容する言葉ではなくて、単なる差別的な言葉として使われている場合があるのかなと思います。それは実際にアスペとかと呼ばれている人が、アスペルが証拠を持っているかどうかにかかわらず使うことができてしまう。持っていたとしてもそれがどれくらい、さっき言ったように、あいつアスペじゃんという人の、何でそれを言うかというと、その人が実際にその証拠を持っているとして、それを言う具合に他人にとって、アスペじゃんと言った人にとって、それが表層化するくらい何かしら摩擦とかノッキングがあったということだけど、つまりそれを言っている人からすると、何かしらの被害というか不利益をこむったと思っていたりするわけなんだよね。だからその時に、それをやった理由がわからないとか、何でその行動をしたのかが理解できない、本当は理解しようと思えばできるんだけど、それを短絡的に結びつける、原因と結果を結びつける。本当は実際の起きていることとしては複雑なんだけど、今自分の持っている理解力で理解しようとした時に、最短経路で結べる、2点を結ぶための手段として、そういう言葉を使ってしまうということがあるのかなと思います。これは結構問題というか、すごい一般的な、一般的というのは他の議論、他の題材にも使えることだと思うんだよね。例えば、ただ日本に住んでいるとなかなか、特に今僕が日本に住んでいたら、それをどれだけ考えることが、それを感じることができるかというと、ちょっと難しいんですよね。だからこそ僕は本当にやっぱり海外に来てよかったなと思っているのも一個そうなんですけど、日本にいてというのは、僕の場合だと、客観的に全て喋ると、日本に住んでいる日本人男性で、性的な思考もストレートで、今分かっている範囲だとね。僕がもともと働こうと思っていたところだと、大手の会社とか、そういう属性で見ていったときに、例えば20代後半って考えると、多分属性で見たときに、そういう対象になり得る、日本の社会で何かしらそういうね、言われもないというか、属性でくくって、例えば何か、摩擦的なのが起きるとしてあり得るのが、この人若いからねっていうのが一番あり得ると思うんだけど、あとね、今だと、もう男だからって言われる時代というか、それはずっとあったと思うけど、そういう部分もありますと。ただやっぱり、マイノリティだなって感じる瞬間は、やっぱり少ないと思うんだよね。日本に住んでいると。どっちかって、マイノリティとしてっていうのは、数多い少ないもそうだけど、力関係として、自分が弱い立場にいるなというか、仲間が見つからないなみたいなことって、なかなかないと思うんだよね。僕は海外に住んでいると、アジア人、日本人っていうところで、慣れてしまったというか、全然そこで、純王っていうのもまた変なんだけど、そこで問題なく過ごせる、それは周りに恵まれているんだけど、いうこともあるので、特に困ることはないんだけど、言葉の面であったり、文化の面で、何かしらの摩擦が生まれますよね。この摩擦っていうのも、捉え方がいろいろあると思って、今喋ってて思ったけど、必ずしも悪いことばかりではないんだよね。波風を立てるっていうこと自体は、悪いことではないと思うんだよ。それが進んでいる船を邪魔するようであれば、それは悪いように捉えられるけど、それが進んでいる船を後押しするようであれば、それは良い方に捉えられるっていうことだから、それも全て捉え方の世界なんだけど、なんでこの話をしてるんだっけな。とにかく外国にいると、マイノリティ的な立場になることが多くなるし、日本にいるとなかなかないところだから、難しいところであると思うんだけど、でもそれは自分の今持っているもの、それは男であり、日本の中でのいわゆるマジョリティ、言葉はちょっと違和感あるけど、仕入れられていない側というか、力を持っているとされる側であったとしても、ある程度、相対的に考えて、自分のポジションを置くことはできると思うんだけど、特に、だから、僕が言いたいのは、海外にいると、それを感じる、考える機会は少なからず出てきました。ただ実際に自分がそれを感じたこと、差別的なことを受けたこととかっていうのは、これはヨーロッパに住んでいるって、ヨーロッパはある程度そこは恵まれている場所なので、外国人が住みやすい場所なので、っていうのもあるんだけど、そんなにはないのかなと思いますが、例えば、すごい簡単な、すごい無邪気な例を出すと、例えば僕は、よくね、ほぼ毎日キッチンでご飯を作っているわけなんですよ。そうすると、ルームシェアなんで、例えばルームメイトの人が、キッチンに入ってきて、じゃあ何作っているの?みたいな、なるわけだよね。その時に、例えば何だろうね、お好み焼き作っていたりとか、焼きそば作っていたりすることもあるんだけど、スパゲティ作っていて、そこに適当に、僕がこれをよくやる調理法なんだけど、冷蔵庫にあった野菜を切って、適当にソースを作って、全部でパスタと和えて、即興でご飯を作ります、みたいなことを結構やるわけなんだよね。それも、パスタもソースも、僕は出来合いのソースあんま好きじゃないので、そこも作っていると、手の込んだことを作っているように見えるらしくて、大体僕はあんま肉を調理しないので、肉を調理しないというのは、野菜ばっかり使っているので、ヘルシーに見えるらしいんだよね。そうすると、ゴーターは今日も、それは何?そのご飯は何?みたいな、ただのパスタなんだよ。ただのパスタと野菜を和えただけなんだけど、そのご飯は何なの?みたいに言って、即興で作ったんだよって言うと、そういう日本料理があるんだ、みたいな。だからその分からない部分は、日本料理になるわけなんですよ。その人にも根拠があって、野菜ばっかり使っていて、いつも、俺のルームメイトからの評価は、いつもヘルシーなものを食っているって言われるわけだよね。なぜなら日本人だからってなるんだけど、そういうのも一個の、これは無邪気な例だけど、僕としては僕なりの、本当に理解されづらい部分であるけど、ご飯作る時の、作りやすいものだったりとか、レシピ考えるのめんどくさいからっていう、単純な理由だけなんだけど、野菜をたくさん入れるっていうところがあって、それを知った時に、それを知らない人から見ると、なんか、そういうものを作っているように、変なものを、自分が知らないものを作っているように見えると、パスタは茹でては茹るけど、こっちの具材にあるのは、オリーブオイルと唐辛子、ニンニクでできた、ペペロンチーノではないし、ジェノベーズでもないし、フルートディマーレ、アラビアタでもないし、ってなると、これはなんだと。その人が持っている知識を、こういったものを僕が作っているわけだよね。それは別に、僕が何か数項なご飯を作っているわけじゃなくて、その人が持っていない、僕が何を作っているか分からないかというと、僕も何を作っているか分からないからなんだけど、そういうのをすると、僕はドイツでやっていても、日本でやっていても、僕ですら何を作っているか分からないんだから、見ている人は日本人であれ、ドイツ人であれ、ブラジル人であれ、何人であれ、それは僕が何を作っているかは分からないというか、表現できないことになるんだけど、じゃあそれを日本で作った時と、ドイツで作った時、何が違うかというと、日本で作った時に、僕が覚えているのが、コマ米でルームシェアをしていた時に、同じようにご飯を作ったんだよね。パスタを作って、いつも通りというか、今ドイツでやっている方法もそうなんだけど、その時も、3年以上前だけど、パスタと何かをパスタを作ったんだよね。それが野菜だったのかな?何かの野菜か何かでパスタを作ったんですよ。そこに近藤がいたから、それをご飯にあげたんだけど、その食材は多分野菜だと思うんだけど、それでパスタを作るんだ、ちょっとびっくりされた記憶があるんだよね。その時に近藤がいたのは、ちゃんと覚えていないけど、僕は筋トレもするし、その時、お酒を飲んでもランニングするみたいな、健康なのか不健康なのか、よく分からない生活をしていたので、健康的だねという評価をされたわけなんですよ。それと同じような調理の仕方をドイツでしていますと。そうすると、どういう評価をされるかというと、日本の料理を作っているんだね、と言われるわけなんだよね。そこの場所が変わると、そういう言われ方が変わる。ご飯の例で言うと、全く摩擦が起きないよね。別に僕は日本の料理じゃないけどな、とは思うけど、その辺も説明はするんだけどね。でも、ヘルシーだねということで、言いたいことは基本的に一緒なんですよ。そこの形容の仕方が変わるというところで、そうすると、形容の仕方が変わると、見るところが変わるので、僕を日本人として、日本人という大きい括りに入れるのか、日本人は知っている中で、健康な人だねと見るのかというのは、小さい違いだけど結構でかいのかなと、いうふうに思っています。で、これがご飯をどう作るかみたいな話なんだけど、今言ったのはね。これがもっとパーソナルだったり、

ありがとうございます。