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被災者でも部外者でもなく、震災と向き合いきれなかった自分が、今だから言えること。

2011年3月11日、14時46分。
当時高校2年のぼくは、茨城南部にある校舎の4階で古典の授業を受けていた。
確か右から2列目、前から2列目の席に座っていた、と思う。

今日2021年3月11日。あの大震災から10年がたちました。
被災地とまでは言えないけど、確かに影響を受けた茨城県南部で東日本大震災をぼくは体験しました。

被災者ではないけど部外者でもないというある種あいまいな立場であったから、震災の捉え方が分からずちゃんと向き合えていないところもありました。

だから今日という節目に、あの日の備忘録と、あの震災を受けて10年かけて感じたこと、これから震災とどう向き合のがいいのか、書いてみようと思います。


備忘録:高校2年のあの日。

2011年3月11日、14時46分。
当時高校2年のぼくは、茨城南部にある校舎の4階で古典の授業を受けていた。
確か右から2列目、前から2列目の席に座っていた、と思う。

そこに思いもしなかったあの大震災がやってきた。

当時いた茨城南部は震度は6弱。

机の下に隠れたものの、揺れが強すぎて机を抑えることができず、そこそこ重い机がこんなにも動くのか、と心臓がバクバクした。壁に立てかけてあった時計がすごい勢いで吹っ飛んできた。

その後校内放送の指示に従って、校庭まで避難した。しかし校庭は所々地割れしていて、地下数メートル先までのぞくことができた。地割れした裂け目の中には鉄柵が無造作に配置されていて、落ちでもしたら刺さって死ぬんじゃないかと思ったのを覚えている。

グラウンドにいてしばらくするとヘリコプターがグラウンドに着陸した。パニックなって倒れてしまった子を救助しに来たらしい。

交通網は麻痺し、その日は学校に泊まることになった。友達みんなで乾パンをどうやったら美味しく食べられるのか考え、自販機でいちごオレを買ってかけるのが一番まともだという話になった気がする。

その夜、ガラケーのアンテナをたて、テレビを友達で集まって見たわけだけど、北陸の工場地帯が津波にのまれ大火事になっている映像に言葉を失った。本当に何が起こっているのか分からなくなりそうだった。

深夜2時くらいに、お母さんが学校に迎えに来てくれて(普段なら車で1時間くらいのところに8時間かかったらしい)、家に帰宅することになった。家に帰る途中も何度も余震が来て、電灯がすごい勢いで揺れていた。

家に着いたけど、半分パニックになりかけていて、ベッドで眠ることもできず机の下にずっと隠れていたのを今でも覚えている。あそこまで不安に襲われたのは、あれ以来経験していない気がする。

それから数日、家の水は止まり、近くの井戸水に組みに行った。コンビニから食べ物は消えた。ガソリンスタンドはほとんど休みになり、数少ない営業しているところにはありえないほどの車の列が終日できていた。

それから、放射能が風にのって茨城南部まで飛んでくることがあり、当時テニス部で間も無く最後の試合を控えていた僕は部活もろくにできず、時間だけがすぎていった。そして茨城県の大きな試合に使う会場は、一つは地割れで使えなくなり、もう一つは津波に飲み込まれた。


震災と向き合わなかった日々

あの日のことを思い出すと、こんな感じになります。

僕は正直、震災とどう向き合うべきか分からずに生きてきたと思います。

確かにあの大地震を経験して、生活もだいぶ狂わされました。

しかし、僕の住む地域は津波があったわけではなく、数ヶ月がたてば元どおりの生活がやってきました
その一方で、東北から放射能を避けるために逃げてきた方々も近くにいました。

そういった人たちを見ると、被害者面してはいけないと思うと同時に、パニックにもなりかけたあの地震のことを考えたくないとも考えるようになりました。

被災者でもなければ部外者でもない。
そんな曖昧な形であの地震を経験した僕は、向き合うことに蓋をして、受験勉強に集中するようになりました。


震災と向き合うこと

それから時は経ち、震災のことは毎年やってくる3月11日に思い出すくらいになりました。

そんな僕が震災を改めて考えるようになったきっかけは、今から5年前くらいにたまたま免許合宿で宮城県の石巻を訪れたことでした。

そこで、震災の爪痕、復興しようとする街、当時の話をする人、様々なものを目にしました。

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そこで、改めてあの震災から5年経ってもなお、毎日あの日と向き合い続けながらも生きている人がいることを経験として知ったのでした。そして、そこで食べるものは美味しく、高台から見る景色はとても美しかったのです。

それから数年時は経ち、社会問題をビジネスで解決をすることを掲げるボーダレス・ジャパンにジョインしました。そのなかで、3.11が残した問題に、今なお取り組む人たちと出会います。

このミンナソラノシタという団体は、放射能を気にして外遊びを子どもに満足してさせてあげられない福島の子育て家族のために、放射能の心配がない京都に招いて、何も気にせず子育てをしてもらう幼稚園留学に取り組んでいます。

代表の方は、京都に住んでいて福島とは関係なかったけれど、この問題があることを知って、立ち上がったのでした。決して向き合うことに蓋をしなかった人です。

また、広島の学生でも、復興が何か考えてほしいと動いている人たちがいます。

こうしてこの数年で、被災してなお今も向き合い続ける人たちがいることも、自分は被災していなくても向き合おうとする人たちがいることも知りました。

そういう人がいるなかで、自分は何もしなくていいんだろうか?


今の小学生は3月11日が何か知らない

今日授業をしていて、生徒が自然災害にも関心がある子だったので特別編として東日本大震災について一緒に考えました。

その生徒は小学6年生なのですが、その生徒曰く今の小学低学年の子だと3月11日に何があったか知らない子もいるよ、とのことでした。

衝撃でした。
10年というのは、そういう時の流れなんだと、思い知らされました。

確かに自分は震災によって人生を狂わされたわけではありません。
しかし、あの日、災害の恐ろしさと命の大切さを知ったのは間違いなかったはずです

だから、自分は被災者じゃないから知ったことを言わない方がいい、じゃなく、次の世代に同じ悲劇を繰り返さないようするためにも、伝えようと心がける義務があるんだと感じました。

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(2017年、石巻の風景)

10年経った20年後は、震災を経験せず生まれた人が成人になります。
そんなこれからの世代が、災害とどれだけ真剣に向き合えるかは、あの震災を知った僕たちが伝えていく他ないんです。

だから、これからは僕が経験したことでも、見たことでも、しっかりと次の世代に伝えていこうと思います。
きっとそれが、次の世代の命を救うことになるかもしれないから。

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