言葉の船は漕ぎ出された 渡邉

 行き先も決めず開設したこのnoteに、藤本横山両先生も初投稿を寄せてくれてひとまずホッとしつつも、さっそく具体と抽象という普段考え慣れないテーマが投げ掛けられて言葉に詰まってそのまま数日が経った。何を書こうか、迷った。と同時に、気付いた。具体と抽象という2ワードが投げかけられただけで、僕のこの1週間はそれまでとは違う様子で、ぐるぐると思考が廻っている。普段自分がしているもはやルーティン化している思考に、新しい風が吹いた気がする。何か答えに辿りつくわけではないが、ずうっと考え続けられていられる。投げかけられたふわりとした言葉が、読んだ者に想像の翼をくれる。行き先を決めなかったことが良かったのかもしれない。noteをつくって良かったかもしれない。

 お二人とも反応を示された『それまで出会ってきた「先生」と少し様子が違った。
まず、使う言葉に具体性がない。』という僕のコメントについて捕捉したい。
 渡辺くんは普通です。という言葉は、小学生5年か6年のときに、担任教員が僕の通信簿に書いた評価である。なにか既に決められた評価軸があって、それに当てはめて僕を評価した結果、普通なのである。僕は普通なのかあと、高校生くらいまではぼんやり思っていた。
 大学に入ると、水沼先生、藤本先生、横山先生たちと出会う。
 水沼先生は、僕の出身地である鹿沼と向き合うきっかけをくれた。卒業研究のテーマを決めかねている僕に対し、一度鹿沼を歩いてらっしゃいよ、何か見つかるわよ、と言う。藤本横山両先生との出会いは先の記事に書いた通りだ。ああしなさい、こうしなさい、と学生に道案内をするのではなくて、学生と対話し、出てきた何気ない言葉をすくい上げてくれた。既にある評価軸に学生を乗せるのではなくて、学生の中にある何かに着目して、膨らませて、創造につなげる。評価はし難いし、手間も時間もかかるが、自分を「普通」だと思い込んでいた僕はだいぶ救われた。時には「具体性」を抑えた先生の言葉たちは、考えるきっかけを与え、創造の翼を授けてくれたと、大袈裟だが思う。

 藤本先生、横山先生、これからは、記事タイトルに筆者名を書きませんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?