「もっともらしさ」を疑う

やっぱり、何かの拍子で目に入って来た。

なんとか坂48(いや46だったか)というグループの歌。

名前も個々の姿もグループとしてのありようも、そしてメロディーも歌い方も、皆どこかで聞いたことのあるような、見たようなことがあるような…(これをつくりだしている人は同じ人ですね)。でも、いったいなんのために(ごく小さな差異を与えて、それぞれを聴く人に特別な感じを持たせようというのだろうか)。

歌詞さえも、大量生産の証のようなありふれたフレーズや、ただそれらしい抽象的な言葉がくり返される。思わずはっとするような、具体性や驚きはない。おまけに、それぞれの言葉の間に整合性もない。こういうのを複製、自己模倣、粗製濫造というのではないか(最初のグループを結成することを発明したプロデュース能力はたいしたものだと思うのだけれど)。

これは、行き過ぎた抽象化のせいと言うべきか、それとも抽象化なしの具体の故なのか(いったい、どういう人が、どんな気持ちで聴いているのだろう)。

こうしたことが、いま若い人たちの間にもよく見られると思って気になるのです(上のことの影響については知らない。でも少なからずあるのではないか)。

たとえば、課題についてのレポートの発表でも、どこからか借りてきた、何かもっともらしく聞こえそうな言葉を連ねて、疑うことがない。どこまでいっても熱を持たないままの抽象的な言葉の連なりだけで、具体性が示されることがないのは、自分で考えようとしていないということに違いない。 彼らも、ある部分では私らしさ、というか他者との差異性には敏感なようなのに。

なぜ、こんなことになったのだろう。

いつ、どこで、間違ってしまったのだろうか(いや、間違っていないと反論されるのだろうか)。商業として、そうしたことを喜ばないながらもやっているとしたら、残念だけれど、やっぱり罪ではあるまいか

あるいは、僕の誤解だろうか(だとしたら恥じ入って謝るしかないけれど、ぜひそうあってほしいものです。ま、印象で仔細に分析したわけではないので、この可能性はあるのですが)。

でも、もっともらしくあることの罪ではなく、(うんと若いのならいざ知らず)うわべだけもっともらしくあることを装うことに対して疑義を持つことがないことの罪について言いたいのです。

誇るべき中身がないうちは、それを得るまでの間、少なくも形式だけはきちんと整えるというのがよい。そのくらいの矜持を持って取り組むこと。とくに、影響力がある人は、その力を十分に意識してその力を行使してほしいのです。

こんなことにいちいち反応するというのは、やっぱりよほど暇だということか!?(F)

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