知っているつもり

舌の根の乾かぬうちに、また*。ま、「つもり」繋がりということで、勘弁してください。

先日(と言ってもかなり前のことです。書き始めてからも随分経つ)、何人かで、かつて世話になった人のお見舞いに出かけてきた時のこと。

一緒に行ったうちの一人が近況を尋ねられて、琵琶湖周辺に旅行に出かけた折に近江八幡に立ち寄った時の話しをすると、先方の故郷だということが判明し、しかも彼が学んだ学校はヴォーリーズの設計だという。そして、ヴォーリーズ**は知っているかと訊かれたので、建築はもともと素人だったようですねと答えると、「いや、アメリカで建築を学んだヴォーリーズ……」と言う。

その時は、そうだったか。もともと建築家志望だったけれど途中で宣教師を志すようになったという若者が日本に宣教にやってきて、そこでたくさんの建築を残すことになったのではなかったのかと、確信を持てなくなったのだった(で、その後調べてみると概ね間違ってはいなかったようで、ひとまず安心したのだった)。

ただ、このところこうしたことが多く、実は知っているつもりが、そうでない、正確なことを把握していなかったことに気づかされるというが少なくないようなのだ(ちょっと、怖くなります)。

ま、あんまりなんでもかんでも鮮明に、正確に覚えている、理解しているというのもちょっと楽しくないのかもしれない気がしたりするけれど、知っていたつもりがそうでなかったというのは、もっと辛そうだ。

「言葉なんか覚えるんじゃなかった」と書いた詩人の心の中にも、そうしたものとまったく無関係ではないものがよぎることがあったのではないかいう気もしたのだけれど、さてどうだろう。

でも、ぼくたちは、もはや言葉を忘れることはできない。となれば、正確に用いること、正しく理解することに務める他ないのだろうと頼りなくも思い定めて、薄くしたウィスキーを飲みほした次第、でした。(F)

*  自身のHPが落ち着くまでは、しばらくはここに載せてもらうことにしよう。強弁すれば、「建築」と全く無関係という話題でもない、でしょう。

** でも、そうしたヴォーリーズが、しかも異国で、なぜ建築家としてあれほど活躍できたのかということについては、近江八幡で彼の建築を巡るうちにちょっと思いついたことがあった。それはYMCAとの繋がりの故ではないかということなのですが……(ま、当たり前といえばその通りで、とりたてて目新しいことではないですね)。

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