「形から入る」ことについて

先日、眼鏡を新調しました。コルビュジエ風のもの。おなじみの丸眼鏡ではなく、晩年のちょっと丸めのボストン風の黒縁の眼鏡。ずっと探し続けていたのですが、漸く近い雰囲気のものにめぐり逢った*。

「形から入る」というのは あんまり評判が良くないようですが、僕はけっこう大事なような気がするのです。そして、僕自身は形から入ることが少なからずある。

「好き」、「面白そう」、あるいは「なぜだろう」、といったことから始めるといいと書いたばかりですが、もうひとつ「形から入る」というのも有効(しかも、きわめて有効)だと思います。

若い人はもちろん、そうでない人も案外多くの人が経験してきたことではないか。たとえば、好きな雑貨やファッションだって、始めはそうやって選んできたのではあるまいか。これは悪いことでも何でもないことで、むしろごく自然なことに違いない。こむづかしい理屈とは関係なしに。その方が、きっとモチベーションも上がるはず。いい包丁を手に入れると、料理の腕が上がったような(あるいは上がるような)気がするように。

さらに言うなら、形から入っても、必ず気になることが出てきて、それはなぜだろうと考えるはず。たぶん、多くの人は自分がどういう人間か、何者かということが気になったり、そのことについて確認したいと思うのではないかと考えるのですが、どうでしょう。だから、出発点はあんまりたいしたことじゃない(ま、反対する人はいるだろうけれど)。

むづかしく考えてから始める必要はないのだ。というのが、現在、ただいまの僕の考えです。これからもたぶん変わらない気がする(変わるほどには長生きしないだろうと思うし、だいたい一朝一夕に変われるものでもないようだから)。

「好き」から始めるのと「形」から入るのは大した差がないと言うのは、自分の気持ちから出発する(自分を肯定する)ことが一番大事だと考えるから。「形」から入るというのは、言葉を変えていうなら、これ(の形、さらにはその背後に隠されたものを含めて)が「好き」ということだと思うから。ただ「好き」だけで済ませてしまうののはちょっと問題だけれど、若い人は、もっと自分の「思い」や「好き」に自信を持った方がいい(または、大切にする方がいい)のではあるまいか。というか、「好き」を突き詰めればいいのではないか、と思うのです。

僕は、自分ができたことを言っているのではなく、自分ができなかったことを言うのですが(残念。ぜひ他山の石としてください)。

この他、授業の時はネクタイを締め、ジーンズは履かない**(演習の時は、この限りではありませんが)ことにした。

ところで、コルビュジエ風の眼鏡に変えようと思ったのは、別に今からコルビュジエのような大建築家をめざそうというわけではもちろんなく(ちょっと魅力的だけれど)、なかなか盛り上がらない学生諸君の関心を引こうというささやかな試み、いわば目眩まし作戦なのですが……。さて、効果はいかに。

*  実はその前に、妥協してひとつ手に入れたのですが、しっくり来ませんで
   した。
**まったくジーンズを履かないというのは、ちょっと無理かもしれませ  
   ん……。(F)

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