東大理3への道

この記事では金子裕介が東大理3に合格した経験を踏まえ、動画などで東大理3合格方法を指南します。

あわせて、巻末に東大理3の先-road to furureを載せておきます。

最初の部分を、無料部分に載せておきます!!

(2021年12月7日)

その前に、2003年のあの問題に関する動画を撮りました。

2003年の東大数学では、この解法を第6問に書いたのですが、どうも点数が入っていないようでした。



(東大理3の先、の無料公開部分)

この記事は、かつての東大理3への挑戦-road to revengeに加筆したものとなります。

加筆部分はそれほど長くはありませんが、近況を綴っています。

どうでしょうか。


「東大理3への挑戦―road to revenge」
地獄のようなニート生活を送ってきたluciferが立ち直り、日本最難関東大理3に挑戦して生まれ変わる物語。
 特に、今苦境に立っている人、そういった人を助けてあげたい人に読んでほしい。
(1) 序章
 こんにちは。わたくしはluciferというハンドルネームを用いています。あるいは数学マニアとでも言うべきか。2012年に日本最難関である東京大学理科3類、通称東大理3に合格しました。2014年3月より医学部医学科に進学します。また、「東大理3合格者のブログR2」というブログをやっています。http://mathgeek.blog.fc2.com/
 実は、私は9浪で入りました。実際には9浪とはちょっと違いますが、年齢的には9浪相当です。これだけ多浪して東大理3に入るのも珍しいですが、それだけではありません。詳しくは本文で述べますが、とある高校を辞め、現役では東大理3に不合格し、その後はいわばニートのような状態で5、6年を過ごしてきました。そんな私ですが、少しずつ転機があって、東大理3に再度挑戦することになりました。
 この本ではそんな私の挫折と復活を自伝形式でつづってみました。私のように経歴に傷があるいわば落伍者でも、頑張れば日の目を見ることがあるのだということを知ってほしい。みなさんはチャレンジしなければならない状況で諦めることもあるかもしれないが、そうではなくてネバーギブアップの根性で成功をつかんでほしいのです。
 この本では、どうやってニートから東大理3に受かるまで回復したかその道筋、方法を考察しています。ぜひとも今、苦境にあって苦しんでいる人、そういった人を助けて立ち直らせたい人に本書をささげたいと思います。お急ぎの方は、第3章をご覧ください。
 実は、私のハンドルネールluciferのもとの由来は神話の堕天使ですが、その方も私といろいろ共通点があります。それも本文にて述べてみたいと思います。
 また、東大理3には受かりましたが、私にはまだまだ野望があり、そのために壮大な構想があります。それを実現するために東大理3にこだわりました。どんな構想があるか気になる方もいるでしょうから、その構想を一部披露します。
 これから東大を目指したい、壁を乗り越えたいという方に勇気と希望を与える本でありたいと思います。
(2) 前半生―栄光と挫折
 私は1984年12月20日、都内の病院で生まれました。体重は重かったようです。生まれたころにも逸話があって、生まれた直後に何時間も泣いていた。また、生まれて1週間でテレビに「今年生まれた赤ちゃん」としてテレビに出ていました。また、母から聞いた話ですが、生まれて1週間程度で英語を流暢に話していたそうです。「ヘロー。ハーワーユー」と親が言ったところ、私は「Hello. How are you?」とまるで英米人であるかのようにうまく発音していたとのこと。このことで親は、この子は、前世は英米人か宇宙人で生まれ変わりとはあるのだな、とか言っていましたが、どうでしょうかね。怪しいものですね。
 ちなみに、生まれる前すら逸話があって、親が、私が入ったおなかに話しかけると、私が笑って返したという話を聞きましたが、本当ですかね。
 ちなみに、近年になって英語をかなり勉強して英検1級を取得するまで至ることになりますから、このエピソードもある程度は納得できます。英検1級については後述します。
ただ、一般的な英語は決して弱くはないのですが、東大英語はからきし弱かったですね。なぜでしょうか。その理由もなんとなくはわかっていますが。
 その後、都内のとある幼稚園に行っていましたね。そこでは、絵をかいたり、ひらがなを習ったりそれなりに楽しかったですね。また、人生で唯一、制服を着ていた時期でもあります。そこの同級生も有名中学に行ったり、東大に進学したりと結構、人に羨まれる人生を送っているみたいです。どうやら私の周りにはそういう人が集まる傾向にあるようです。
 他に、幼いころのエピソードとしては、4,5歳で隣の駅にある図書館に一人で行ってしまったとか。途中、知り合いのおばさんにあって道を聞いていたようですが、今となってはどうやって行ったのか、そもそもなんで図書館に行こうとしたのかよくわかりません。
そして、勉強面ですが、かなり早熟だったようです。
確かもう5歳くらいで算数はできていました。6歳頃には大人が読む物理の雑誌をちょっと読んでいたみたいです。今考えるとちょっと勉強し始めるのが早いですね。いわゆる天才肌だったというべきでしょうか。もうすでにこのころから算数、数学系は得意だったようです。ただ、周りとはあまくうまくコミュニケーションができてなかったようです。
 知っている方も多いと思いますが、私はいわゆる「アスペルガー」だったようなのです。後に中学の頃に診断を受けました。だから空間把握や数学は得意でも、言語やコミュニケーションは得意ではないタイプのようです。たとえば、子供のころ、祖父母が東京の板橋に住んでいましたが、祖母のことを「めたばしのおばあちゃん」と言い間違えました。新幹線のことを「えんかんせん」と言ってしまっていたようです。(「アスペルガー」は遺伝性の病気ではありませんが、どうもうちの家系はみんな国語が苦手だったりしますね。)だから周りとの関係もいまひとつだったようです。ちなみに、この「アスペルガー」は、後の中高の出来事に深く影を落とすことになります。
 なお、現在では「アスペルガー」は、病名としてはないことになっています。いわゆる「自閉症スペクトラム」という症候群全体の一部としてとらえられています。
 現在、この「自閉症スペクトラム」に悩む子供や親も多いですから、簡単に説明します。
これは、要するに極端な男性脳なのです。おそらく男性ホルモンの一種であるテストステロンが出たことがきっかけで、空間把握や数学、論理といった部分が強化されて、逆に言語や意思疎通、情動といった女性が得意とする分野に劣るようになるということです。この病気で知能が低いか高いかで実際の呼び方が異なってくるのです。
 この病気は、確かに根治治療はできません。しかし、克服はできます。安心してください。私はなんとかなりました。結局は本人の治りたいという意思が重要なのです。
 今後の研究でこの病気の治療方法が見つかると良いですね。たとえば、脳の研究を進めることで治療方法がわかればよいです。
 さて、小学校に入りました。はっきり言って、小学校自体は最悪でした。勉強していれば良いのに、規律や課外活動ばかり重視していやな思いをいっぱいしました。昼食もまずかったです。校舎も汚いです。授業も面白みがなかった。途中から不登校になりましたね。
不登校になりましたが、なるべく学校に来てもらおうという親と学校側の話し合いで、学校の1室に、私のもつ文庫本を置いて図書室のような感じにしていました。たまに学校に行ったときにはそこで文庫本を読んでいました。文庫本の中には、たとえば三国志がありました。曹操が好きでした。野心的で、向上心がある人物は、見習うべき対象だと思う。
 勉強面では結構順調でした。先ほどの続きですが、低学年では微積分の本を読んで嬉しかった記憶があります。最後のページあたりに、大学で習うフーリエ級数やフーリエ変換の式があって、面白かったです。「これ何だかよくわからないけど難しくてすごそう」と思っていました。親もそんな私の様子をみて、将来は数学者になるのだと思っていたようです。ただし、私は東大理3に入りたかったので迷惑でしたが。
 余談ですが、私は小学校からすでに東大理3を目指していました。理由は、当時は医師になりたいとかそんなたいそうな理由ではありませんでした。単に日本の最難関だから目指したかったということだったようです。だが、後のことを考えると、無理やりにでも志望動機を見出して周囲の人に東大理3志望を認知させる必要があったかもしれない。それに関してはかなり後悔しています。本当に後悔しています。何とか志望動機を見つけて、周囲も東大理3合格を応援するムードにすべきだった。また、小学校受験のときから面接試験に本気で取り組むべきでした。今となっては後の祭りですが。
 そして、小学4年生からは日能研に通いました。成績はそれなりに良かったです。4,5,6年のときにカリキュラムテスト(通称カリテ)で1回ずつ1位となりました。また公開模試では最高3位になりました。当時は、優秀者は賞状をもらえて、合計30枚くらいもらいました。また、算数は全国トップレベルでした。特に、カリテ算数では完全にトップだったようです。当時の日能研のテストでは正答率が出てきましたが、算数の1%問題が
相当量解けました。だいたいほかの易しい問題を早く解ききってから、最後の超難問に時間をかけて挑むというのがスタイルでした。塾の先生からも注目されていたようです。授業では、算数では相当解く速度が速かった。周りも争って解いていましたが、大抵私が一番解くのがはやかったです。国語は当時の先生の教え方がうまく、徐徐にではありますができるようになりました。最後の頃のカリテ国語では満点も出した。また、社会、理科についてもそれなりにできたようですが、当時はどちらかと言うと社会の暗記に力を注いでいて、家での自主勉強もそれが中心でした。実際、社会の成績も良かったです。しかしながら、後の東大理3入試を見据えると、理科を重視した方が良かったかも。ただ、まあ、それでも成績は上位を連発していましたね。
 そんな感じですから、当然のように中学受験も受かりました。進学先は全国でも1,2を争う偏差値だった学校にしました。(ちなみに、誇張ではなく本当です。まあ、それを言ったらどこの中学が特定されますが、別に良いです。)
 しかし、です。これが悲劇の始まりでした。とんでもない苦しみと挫折を味わうきっかけとなったのです。
 進学した学校は、東大への高い合格実績と自由な校風をうたい文句にしていました。ほかにレベル的に合格可能だった学校は、非常に「堅い」イメージがあったので、マイペースな私にはあわないと思い、受験せず、もっと偏差値の高いあの学校に進学したのですが、入ってすぐに違和感に気づきました。というのも、あまり勉強をやる学校ではなく、かわりに学校行事に参加しないとすぐに文句を言ってくる学校でした。せっかく勉強できると思って入ったのに。私の気持ちは裏切られました。
 こういうことならば、もう1校受かっていた御三家の1校に進学すべきだったかもしれない。そちらでもうまくいったかはわかりませんが、少なくともあの中学よりはましだったかもしれません。
 しばらくして、精神的に参り始めて、また勉強したいのに学校行事を優先させろとうるさく言ってきたので、次第に疲れてきました。そして、この学校も不登校になってきました。
 そういうことで、高校の1学期の終わりに学校をやめました。
 やめた理由には、前述の学校行事のほかにも「アスペルガー」であったことが影響していました。どうやら当時の校長がアスペルガーをみきれないと弱腰になっていたという事情もあったのではないか、と親はいっていますが、真相ははっきりしていません。この件を完全に暴露すると政治的な問題点すら浮上する可能性があるようです。だから、本書では深くは扱いません。まあ、ご想像にお任せします。いや、本当は暴露した方が面白いのですが、はっきりしないので、述べないだけです。
 さて、やめてすぐに大検(大学入試検定、現在は高認)に合格し、希望をもって東大理3の受験へと進めると思いました。勉強については、後の章で述べますが、A判定連発レベルではなかったですが、現役としてはかなり有望でして、現役合格は十分できる、むしろ当然であろうと思っていました。だが、それには落とし穴があったのです。
 第1章はこれでおしまいですが、このあと第2章に続きます。私はこれが初めての本なので、まだどのようにすれば自分の感情を正確に文章化して読者の方に伝えられるのか、その方法論、技術はまだもっていないかもしれません。
 しかし、第2章を読む前にこれだけは頭に入れておいてください。おそらく、文章から読み取れる以上の絶望感を私は味わいました。その絶望は、今思えば、信じられないほどの深さだったのです。第2章でお話するのは、私が味わった、そのとんでもない絶望です。それを追体験してもらいたいのです。いかにつらい経験だったか。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。

(3) 東大理3への思いと絶望
 さて、高校を辞めた私は、それから勉強に明け暮れました。とにかく家で勉強していました。ただし、後述しますが、当時の生活習慣は乱れていてあまりよくなく、今現在推奨する生活ペースとは大きく異なっていました。勉強としては、Z会をやっていました。また、予備校に籍だけおいてテストを受けていました。高校を辞めてからは東大模試をいろいろ受けました。判定は東大理3のA判定はなかなか出ず、当時は1回だけです。それは2002年の第2回東大実戦です。このときは291点を取って、東大理3内の順位は20位くらいでした。おまけに当時は試験前に問題、解答を取り寄せて受けるカンニング行為ができて、上位の点数は、嘘くさかったので実質的順位はもっと上だったでしょうね。他の模試はほとんどが東大理3B判定でした。まあ、絶対に受かるというほどではなかったですが、普通現役でこれほど成績が良ければ受かるでしょう。そう思っていました。ただ、親も祖父も東大理3に絶対受からないと思っていたようで、私にはそれがよくわかりませんでした。しかし、彼らの恐るべき予言は現実のものになろうとはまさか思っていませんでした。
 順番は前後しますが、高校やめた直後の頃はZ会の東大数学のコースを出していました。当時のネームは「理Ⅲを狙う」だったと思います。結構200点満点をだしていました。
他に、大学への数学の学力コンテスト(通称、学コン)もたまに出していましたが、そちらはいまひとつでしたね。一応、名前は載せていましたが、学コンはどうも細かいことを減点する傾向にあった気がします。その辺は私とはあいませんでした。
 他に数学のエピソードとしては、第1章で言うべきだったかもしれませんが、数学オリンピックがあります。目立った実績はないのですが、一応、中学1年ですでに予選を突破するくらいでした。当時は中学と高校に分かれていません。まあ、そのまま続ければもしかすると国際数学オリンピックで金メダルが取れるくらいになっていた可能性はあります。
しかし、そうはしませんでした。なぜか。それは、数学者にはなりたくなかったからです。
(あと、数学オリンピックでは海外に行くことになりますが、それもいやだったかもしれません。海外は治安が悪いイメージがあっていきたくなかった。今なら考えられないことですが。言語の問題もあったかも。)
実は、あくまで東大理3にいって医者、研究者になりたかった。数学自体は面白いのだが、それはあくまで問題として解くのが好きなのであって、数学を研究して食べていこうという代物ではなかったのですよ。私としては。また、後付けのような設定ではありますが、後の章で述べるような不老不死に関する研究をして、さらに未来でもっと高度な数学を研究したいという夢があります。だから、今はまだ数学をやる時期ではないだろうと思っていました。これに関してはあとの章でくわしく述べます。
 さて、かなり脱線しましたが、結局、もともと数学に関してはかなりできたのですよ。
ただ、大半は独学です。他の科目は、並みくらいでしたね。特に英語がかなりできなかった。後に英検1級を取得するくらいだから英語そのものは苦手ではないようですが、東大英語とは相性が悪かったのかもしれない。これに関しても後述しますが、どうも東大英語は本質的な問題ではなく、悪問に近い気がします。どちらかというと英検1級やTOEFLの方が本格的で良問という印象があります。やはり日本語と英語は本質的に異なる言語なのに、同時にあつかうのは難しい。また、東大英語のたとえば和訳問題は「どうしてこの答えになるのかよくわからない」という問題が多いように思います。構文も昔の文章のようで古臭いです。
 余談ですが、東大英語の120点分の配点は、そっくりTOEFLの点数で代用すべきだと思います。この前、大学入試にTOEFLを導入する案が出ましたが、あれは珍しく
名案だと思う。それをつぶそうとしている人がいることは信じられません。この国の将来を考えているなら絶対にTOEFLを導入するべきです。
 (さて、いささか話が脱線しましたね。話を数学に戻します。)
もともと、数学に関しては抜群の記憶力を発揮していました。この際のポイントは、理解して覚えることだと思う。一字一句をばか丁寧に記憶するのではなく、解答の骨子をつかんで、糊付けは自分の言葉でやる。それがすぐれた記憶力を発揮するコツだと思います。
 さて、こうして自信を持って入試に挑みました。センターはあまり勉強をしてないことがあって、800点中の700点しかとれませんでした。ただ、これにはあまり気にしなかった。もともと東大は2次勝負ですからね。たった数点差なら別に気にすることはない、簡単に逆転できる。そう思っていました。
 ある意味、悲劇でした。
 そして、2次試験を受けることになります。
 2次試験ははっきり言ってかなりできたと思う。数学は110点くらい取れた自信があった。実際、この年(2003年)の東大数学の問題で明確に間違えたのは第5問(3)くらいであり、後のある塾の過去問集をみたらその問題の配点は10点だったことから、満点は120点なので、やっぱり110点というのが正しい気がする。厳しく採点しても100点はいくはず、だった。他も、理科はかなりできた(というか簡単だった)し、国語、英語も無難な出来だったはずなのです。
 だから、本当に2日目が終わった時点では合格していたはずでした。いや、それとも、東大受験する以前からもうすでに合格可能性は0%だったのかな。
 前述の文は意味がよくわからないと思います。その意味をこれから説明します。
 実は、当時の東大理3には、3日目に面接がありました。(ちなみに、2008年以降は前期入試では廃止されています。)
 これが実は落ちた原因か。
 面接では、当時の私は無難にこなしたつもりでしたが、今思えば全然答えになっていませんでした。また、大検のことについても聞かれました。やはり、大検を入れるのは、当時の東大医学部の方針ではあわなかったのか。また、私はアスペルガーですから、それも医者にふさわしくないと判断された理由かもしれません。当時の国立医学部は、世間からの批判の影響で臨床医を育てることを第1に掲げており、私のように経歴に傷があってアスペルガー持ちでは臨床医としてふさわしくないと思った可能性が高い。
 のちに得点開示があって、合格最低点に2.2点ほど足りないことになっていましたが、私はこの点数に未だに納得しておりません。というのも、数学が92点で低すぎました。他に理科も物理48点、化学41点といまひとつ冴えません。物理はほとんどの問題で正解は出していて、しかも当時は採点が甘いと言われていたので、最低でも52点はあると自己採点していたのですけど。採点が甘いという話はどうなったのでしょうかね。謎です。
 余談ですが、東大で成績開示が始まったのはおそらく私が原因です。私は当時から合否と成績に疑問があり、成績をまずおしえてくださいと頼んでいました。受験当時はまだ開示制度がなかったのです。東大は最初、かたくなに拒んでいましたね。もう当時すでに情報公開法があったので、さっさと開示する必要があったわけですが。そこで、うちの親が東大と話し合い、結果点数が開示されました。その後は、東大に追随して全国の大学が入試点数を開示するようになったことから、まさに私がきっかけで点数開示制度ができたわけです。
 さて、開示はされましたが、その結果は到底納得のいく点数ではありませんでした。また、東大が入試結果を変えるわけがないのです。東大理3現役合格を心から望んでいた私は深い絶望に突き落とされました。面接があったので、仮に浪人してもまず受からない。子供のころの夢はついえました。
 私は一度死にました。
 もちろん、本当に死んだわけではないのですが、死んだのも同じ。むしろ、死ぬなど生ぬるいくらいのすさまじい絶望でした。まさにluciferと同じように地獄に落ちました。
 その後は、死ぬこともできず毎日苦しかったです。受験する気力も起きず、ただ毎日を苦しみもがいていました。親には「中卒」と罵倒され、何度狂いそうになったかわかりません。本当の地獄の方がましだったかも。
 その後はニート生活でした。仕事も何もやっていません。ゲームなどはやっていましたが。あと、このころからもともと崩れていた生活習慣はさらに乱れ、昼夜が完全に逆転していました。廃人も同然でした。とにかく毎日生きているのがつらかった。毎日はまるで地獄のよう。世界が違って見えました。
 こうして、5、6年のときを過ごすこととなります。
 みなさんはこのような経験をしたことはありますか。あったとしてそれを乗り越えられますか。
 私にはいずれにしてもおぞましい経験でした。普通の人はすぐに受験に戻れるかもしれませんが、私はショックの大きさと理3現役合格への切望からすぐには立ち直れませんでした。その回復には5,6年を要しました。
 (本当になぜ自分がこんな目に…。ということをいつも考えていました。絶望が世界を被っていました。すべての世界は絶望に満ち満ちていました。この世界が悪夢のごとくみえました。)
 そして、この回復の背景には、何か劇的なイベントがあったわけではなく、徐徐に自分がこの状況に向き合うことで克服するというストーリーがあるわけですが、それについてはのちの章でくわしく述べることにしましょう。
 もちろん、これで終わったらただの「地獄体験談」で終わるわけですが、話はそれで終わるわけではないのですよ。そこからいかに立ち直り、再び東大理3をめざし、涙の合格へと向かう道筋があったわけです。
 だから、この本ではそういう絶望に打ち勝つ術なども参照にしていただければ良いと思います。私がこれからお話するのは困難に打ち勝つ希望と感動の物語です。今の時代で求められるのはドラマです。はっきり言いますが、これは現実にあった話ですが、フィクションを越えた超フィクション、超現実のレベルに達した話であると言えます。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、それは承知の上でそのように言い表しましょう。


無料での公開はここまでです。

あとは、有料部分で東大理3への合格指南を行い、最後の巻末に東大理3の先の残り部分を掲載します。

東大理3合格指南ですが、この記事を購入していただけた方ならば東大理3ルシファーチャンネルにて質問していただいた問題の解説動画を作ります。

以下、有料部分、

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