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混乱の幕末 坂下門外の変からみた歴史

つい、150年ほど前の出来事でさえ、
現代に生きる私たちは記憶を風化させてしまいがちである。

先日、元江戸城の坂下門を写真に撮ってきた。

↓ 写真の赤い丸が坂下門の位置。

坂下門位置

江戸城は江戸幕府の拠点であったが、1868年(明治元年)に
西郷隆盛らが率いる新政府軍に明け渡され、
皇居となり、現在に至っている。

江戸城そのものは形を変えて今は跡地となっているが、
堀や城門は当時の姿をとどめているので、
歴史を思い出しやすく、
そして、語りやすい。


「坂下門外の変」をご存知だろうか?

坂下門1

坂下門外の変は、大老・井伊直弼暗殺事件の舞台となった
桜田門より、徒歩10分くらいで行ける、
別の江戸城の門である。

桜田門外の変より、およそ2年後
1862年1月、その事件は起きた。

大老井伊直弼亡き後、
幕政を主導していたのは、
老中安藤信正と久世広周(くぜひろちか)。

井伊大老亡き後、安藤は井伊直弼の幕府旧来の体制維持をしようとする一方で、井伊大老の強硬路線を修正しようとした。

老中安藤の主な政策は、桜田門外の変によって、幕府の権威が低下したのを立て直すために、公武合体(皇女和宮降嫁)を実現させたことである。
幕府の権威を何とか維持させようとする起死回生の策である。

しかしながら、
ある政策がなされようとすれば、必ず反対意見が起こるのが世の常である。
この公武合体政策に対し、反感を抱いたのが、尊王攘夷派である。

当時、安藤は井伊大老の開国路線を継承しており、
しかも皇女和宮を14代家茂の室にする、という公武合体政策に対して
反感を持つ水戸の尊王攘夷派(万世一系の皇室が国の根幹であり、他国を排除すべきという思想)は、老中暗殺という暴挙に出たのである。

これにより、とうとう、老中安藤信正が、
文久2年1月15日(1862年2月13日)に
水戸浪士6人に坂下門外で襲われ、背中に傷を負うという事件が起こった。


まとめると、
安藤を中心とする幕閣は、開国そして幕府権威を高めるために、孝明天皇の妹を14代家茂の室に迎えるという和宮降嫁作戦を行った。

それに対して、対立するイデオロギーは、
万世一系の天皇を頂点とする尊王論に加えて我が国を脅かす外国を排斥しようとする「尊王攘夷派」であった。

それが、幕府の政治を動かしている老中安藤が尊王攘夷派の水戸浪士によって、坂下門外で襲われる、という事件に発展したのである。

文久年間の前後は、幕府の中心者である大老井伊直弼や老中の暗殺事件が起こり、
幕府の屋台骨が大きく揺らいでいった。

開国路線が正しいのか、または攘夷が正しいのか。
将軍家存続が良いのか、
または皇室が将軍家に変わる世の中になっていくのか。
親藩・譜代大名が権力を保つのか、
それとも外様大名が力を持ってくるのか。

ますます混沌の度合を深める文久時代、

京都では近藤勇を組長とする新選組が暗躍した。
土佐では坂本龍馬
薩摩では西郷隆盛、大久保利通らが活躍し、
これまでの「身分」というイデオロギーを越える時代が始まりつつあった。

そんな、新しい日本の夜明けの始まりが
この江戸城坂下門から覗けないだろうか?


今は withコロナという先が見えない世の中に見えるかもしれないが、
先が見えない、よくわからない、という時代はこれまでに多く存在した。

コロナショックは、実は新しい地球時代の始まりでもある。

幕末の歴史も、一寸先は闇のような混沌とした時代であった。
江戸城の門からそんなメッセージを伝えたかった。

写真(上)坂下門を出て左手の江戸城の堀を望む(下)江戸城坂下門

坂下門9

坂下門4


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