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蛤御門の弾痕から幕末へ旅する

幕末の歴史はとにかく複雑で、高校で日本史を習いましたが、理解するのが大変でしたし、苦手でした。
まだ、年齢的にも10代で、よく社会の仕組みが分かっていない若い時代なのだから仕方がありません。
30代を過ぎて、もう一度幕末の世界を旅してみたい、と思ったのが私のタイムトラベルのスタートです。

わかりにくい歴史の絡まった糸をほぐすようにnoteを綴っていきます。

【幕末を明治時代に動かしたのは何か?】

幕末の歴史を動かしたのは、
イデオロギー(社会思想)です。

250年以上続いた江戸幕府は老中が中心になり【公武合体】路線を打ち出しました。
公武合体というのは支配者階級の武家と皇室を一つにまとめる、という政策で、それは皇女和宮の14代将軍家茂降嫁作戦に象徴されます。

また、幕府は諸外国に対して、「弱腰外交」でした。
ペリー来航の際に大砲で脅され、国力の違いを見せつけられたので仕方のないことと言えます。

それを如実に示したのが安政5年に締結した不平等条約と言われる「安政5か国条約」で、5か国というのは、
アメリカ、オランダ、ロシア帝国、イギリス、フランス。
幕府に強く開国を迫り、弱体化した幕府の側面を突き、貿易をするために結んだ条約です。

これは、朝廷側の孝明天皇の勅許を得ず、幕府独断で決めてしまった条約で、これが幕府と朝廷との関係をより複雑なものにしてしまったのですね。これによって、朝廷(天皇を中心とする公家たち)側の反感を買い、
尊王攘夷論がますます高まるきっかけになりました。

尊王攘夷論の先鋒を担いだのが、今の山口県萩市に本拠地がある長州藩。

長州藩はもともと外様大名で、大っぴらに「反幕府」とは言えないけれど、
そのようなイメージがつきまといます。

wikipedia「長州藩」に気になる記述があったので、引用します。  

長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。
巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。 

そんな長州藩が朝廷の立場を汲んで、
幕末のイデオロギーの一つ「尊王攘夷」論(天皇を中心とした国があるべき姿で外国は敵である)を担ぎ、幕府の態度を批判したのは自然な成り行きだと言えます。


【元治元年7月19日=1864年8月20日】

蛤御門の変=禁門の変はなぜ起こったのでしょう?
1864年8月20日。
1868年が明治元年だから、新しい時代になるまであと4年です。

長州藩は反幕府の立場から尊王攘夷論の立場をとっています。
やはり、朝廷に近づきたいし、天皇を中心とした国作りを目指したいし、今がその好機だと考えました。

そこで邪魔だ、と思ったのが、京都守護職の会津藩藩主松平容保(まつだいらかたもり)。wikipedia「松平容保」より画像をお借りしました。

本当は、長州藩は京都の主、孝明天皇に近づき、
尊王攘夷論の旗印となりたかったのです。
できれば倒幕への階段を駆け上がりたい、というのが本音でした。

急進的な尊王攘夷論を担ぐ長州勢力にとって
幕府から任命され京都の治安を守る立場の会津藩主松平容保は、
目の上のたん瘤といっていいくらい邪魔な存在でした。

そこで勃発したのが「蛤御門の変」。
蛤御門ちかくで京都の覇権を獲得したい長州勢力がクーデターを起こした事件で、戦いは多勢に無勢だった長州藩勢力の敗退でした。
何しろ相手は桑名・薩摩・会津を中心とする幕府の主力+新選組です。下の写真は蛤御門を外側から撮影しています。

今でも残る弾痕の痕を撮影したのが2020年8月。なかなかリアルでした^^;

参考にwikipedia「蛤御門の変」より大切な箇所を引用します。

落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、
会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。
戦闘そのものは一日で終わったものの、
この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、
北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。

どんなに尊王論を掲げたとしても、
これでは京都の町を破壊しつくす「ならず者集団長州勢力」というレッテルを張られてしまいます。
もはや尊王どころではなくなり、残念なことに長州藩は「朝敵」の汚名を着せられたのが「蛤御門の変」の顛末です。

そして、1864年8月21日。

会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり火薬に火を放って自爆した。

・・・・戦いを起こしたけれど、あっけなく終結してしまいました。
その結果、戦いの最中で御所にむかって発砲したということで、長州藩は「朝敵」という立場に転落します。

尊王論をよりどころとした長州藩にとって、これほど悔しいことはありません。
こんな恥辱はありえない!
そんなメッセージが蛤御門の弾痕から聞こえてくるようです。

この悔しさは、戦いで敵であった「薩摩藩」「会津藩」「新選組」への深い憎しみへと変わりました。

しかし長州藩はここで転落はしましたが、ここで終わりません。

気になるのは坂本龍馬による薩長同盟の成立。
まるで水と油のようだった両者の関係は龍馬によって結び付けられて、長州藩は時代を動かす牽引力になっていくのです。

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