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古墳時代の古墳じゃない新しい墓

今から1500年前の古代の日本に登場したお墓「横穴墓」をご存知だろうか?
今日はこの横穴墓の紹介になる。

横穴墓 吉見百穴(よしみひゃくあな)


埼玉県の武蔵野丘陵に位置する横穴墓「吉見百穴」の前に初めて立ったとき。

私は何とも言えない不思議な感覚におそわれた。

 不思議な感覚とはどういう感覚だろうか。

 ・・・・・ここは神聖な場所だ、ということである。

外観は中国のあの仏教遺跡に似ている、と思った。

あの仏教遺跡とは敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)。

↑ 画像はウィキペディア「敦煌莫高窟」よりお借りした。


そして、洛陽市の龍門石窟(りゅうもんせっくつ)。

↑ 画像はウィキペディア「龍門石窟」よりお借りした。


どちらも磐を掘削して穴を開けた仏教遺跡。

私はこの中国の仏教遺跡の影響をヤマトの国の横穴墓群が受けている、と確信している。

中国の石窟の内部は墓に使用されていないのだが、
磐壁に穴を開ける、という手法が同じ。

実はもともと、古代ヤマトには磐に穴を開ける、という習慣などなかった。

実のところ、古代ヤマトでは、磐とはもしろ信仰の対象なのだ。

磐だけでなく山もしかり。

例えば、ヤマトの国の信仰とは、

山や川、そして草木や自然の移り変わりに神性を見出し祭るものであった。


その象徴的な信仰の対象が奈良県桜井市の三輪山信仰である。

↑ 画像はウィキペディア「三輪山」よりお借りした。

三輪山は山そのものがご神体で、その草木にも神がやどるとし、巨木の杉や大きな磐も崇拝の対象になっている。


古代の山信仰とはどういうものであっただろう。
・・・・『万葉集』を紐解いてみよう。


667年天智天皇が滋賀の大津宮に遷都した際、額田王(ぬかたのおおきみ)が作った三輪山の歌がある。


三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなむ隠さふべしや     
 万葉集 巻1・18

訳:飛鳥の都を離れて、飛鳥を見守っていた三輪山をこのように隠してよいものだろうか。雲にだって情があるだろうに。隠してほしくない。

 この歌には、ヤマトの守り神として機能した三輪山への深い哀惜が込められている。

・・・・山や大きな岩に対する信仰は三輪山だけではない。


 例えば静岡県浜松市北区にある天白(てんぱく)磐座(いわくら)遺跡

磐座(いわくら)という名前が示す通り、

巨石そのものを信仰対象とする古墳時代の遺跡である。

↑ 画像はウィキペディア「天白磐座遺跡」より

古事記の石長毗売(いわながひめ)と木花佐久夜毗売(このはなさくやひめ)のストーリー


さて、古代の人は磐や石に対してどのように考えていたのだろうか?

実はそのヒントが『古事記』上つ巻にある。

天つ神(あまつかみ)番能邇邇(ほのにに)芸(ぎ)の命が木花佐久夜毗売(このはなさくやひめ)と結婚するストーリーがある。

この物語に出てくる姉の石長毗売(いわながひめ)の性質に注目したい。


この二人のヒメの父である大山津見の神は、花のように美しい木花佐久夜毗売と醜い石長毗売の娘二人を番能邇邇芸(ほのににぎ)の命に差し出したところ、美しくない石長毗売は返されてしまった。

このとき、大山津見の神は次のように番能邇邇芸(ほのににぎ)の命に言う。

・・・〈中略〉・・石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零(ふ)り風吹くとも、常に石のごとく常(ときわ)に堅(かちは)に動かず坐さむ。また、木花佐久夜比売を使はさば、木の花の栄ゆるがごと栄え坐さむと、うけひて貢進りき。

かく石長比売を返さしめて、独り木花佐久夜比売のみを留めたまひつれば、天つ御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ。

(石長比売をお召しになれば、御子の命は風雪に耐えるように盤石で不動でしょう。
木花佐久夜比売をお召しになれば桜の花が咲きほこるように栄えるでしょう。しかしこのように石長比売をお返しになれば、御子の命は桜の花のようにはかないでしょう。)


 この『古事記』の逸話が示すとおり、「石」「磐」とは年月を経ても不変なものとして信じられた。

そうしたことから、「磐」を祭る、とはその永遠性にあやかるための儀式だった。

ふたたび吉見百穴

・・・・横穴墓群「吉見百穴」に話を戻そう。


横穴墓が掘られた一帯は砂岩が広がっている。

 ヤマトの国旧来の信仰が根付いていたならば、信仰の対象とされた神聖な磐である。

一体
この霊威ある磐に墓穴をあける、ということはどういうことだったろう。

 ・・・・これは、これまでのまつりや信仰を大きく変える出来事がなければ、できないことだった、と私は考える。

それは一体何だったか。

 ・・・・それは仏教の伝来だった

ウィキペディア「仏教公伝」より

私はこの中国の仏教遺跡の影響をヤマトの国の横穴墓群が受けている、と考える。

磐壁に穴を開ける、という手法が同じである。


一方で、

横穴墓群のヤマトの国への初伝播は、5世紀後半の九州地方である。

それから、横穴墓という墓の形が、古墳時代後期からヤマトの国の各地に伝播していき、前方後円墳にかわる新しい盛土を伴わない墓制として定着していっただろう。

まとめ

 4世紀から6世紀まで造り続けられた前方後円墳に代表される古墳の形。その前方後円墳とはヤマト政権の流行の形であった。

↑ 大阪府堺市にある仁徳天皇陵


一方で、それとは全く異なる「異質さ」が横穴墓群「吉見百穴」にはある。


それは、中国大陸から流入した新しい仏教であり、

磐や山を掘削するというこれまでにない手法で人を葬る、という新しい思想だ。

この横穴墓群が流行した時代(6世紀後半~7世紀末)、ヤマトのセンターであった飛鳥では宮が営まれていた。

↑ 伝飛鳥板葺宮の井戸

そして、
この飛鳥時代に法隆寺、飛鳥寺が建立され仏教文化が花開いている。

↑ 甘樫丘より飛鳥寺の方向を望む


 関東地方も吉見百穴に代表される横穴墓群という形で、仏教文化の影響を受けたのだろう。


仏教とは約2500年前のインドの釈迦から始まる。
どのような時代であれ、人間は生きていくと、さまざまな悩みや苦しみに遭遇するものだ。


・・・・・人はどうしたら悩みや苦しみを乗り越えて幸福に生きられるのだろうか?


それに答えてくれるものが釈迦の仏教だった。


仏教とはどんな考え方をするのだろうか?
例えば以下のような考え。


「私たち人間の生命には仏の生命も備わっている。修行をすることによって、仏になることができる。」
「どんな悩みも苦しみも乗り越えていける。なぜなら人間の生命には仏性が備わっているのだから。」


・・・・・こうした思想が横穴墓時代に伝わっていたかは考古学では解明できない。


けれども、もともと神聖な霊力を宿す磐山に穴を開け、墓にする。
それは、周りの自然は神性を宿している尊いものだ、という従来型の考えが浸透している社会では作りえなかったと私は考える。

横穴墓群とは、海をこえて仏教という新しい思想が根付きつつあったヤマトの国に出現した墓制なのだ。 よって前方後円墳とは全く違う。


古墳時代後期に出現した古代人の新しい思想・仏教。

・・・・それが「吉見百穴」に代表される横穴墳墓群にある。


古墳時代といえば、前方後円墳に代表される盛り土を伴った墳墓のほうが有名だ。

しかし、実はこの後に日本列島に現れる盛り土がない磐や山を削って造られた横穴墓群は、この国の仏教伝来を語るうえで重要な役割を担っている。

・・・・・そんな視点で吉見百穴を観察したら、面白いだろう。

【参考文献】
中西進 『万葉集 全訳注原文付(一)』 講談社文庫 1978
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注『日本書紀(三)』 岩波文庫 1994
西宮一民 校注『古事記』 新潮日本古典集成 1979
佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖 編『詳細 日本史研究』 山川出版社 2017
『日本歴史大辞典』 小学館 2000
鈴木永城 『お経の意味がやさしくわかる本』 河出書房新社 2021
鐘江宏之 『日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉人 三』 小学館 2008 

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