治る植物
詩、小説、絵をかいている。
書くことをたのしく思えてうれしい。
ここ数日はつかさどるものが違う人の言葉を聞いてショックを受けたり、自分の奥深く、底の裏面にびっしりと涌く暴力性をまじまじと見つめたりした。それでも、徐々に思考の多動に倒れないようになっている。治癒しているのだと思う。確実に変質している。
常により良くありたいと思っているが、そのたび自分の至らなさに言葉を失う。より良く在ろうとすることに頭打ちなど存在しないのだと痛感する。ただの一瞬でも、卓越化を試みたり、衒学的な様に無自覚であることこそ人間の弱さの発露であると思う。だが、弱さから出でるしなやかな歩みもまた、人間の持つひかりの一つであるとも思う。
回復を分解すると、これは破壊に満ちていた。
回復とはもっとやさしく、柔らかいものだと思っていた。
わたしを構成するたくさんのものを壊して駆けまわり、歩くために信じた哲学、己を取り繕うための詭弁、愛した歪み、良いものも悪いものもすべて壊した。壊さねばならなかった。
回復とは行為で、能動的な所作で、可愛げがない上にとてもくるしい。
回復と破滅はとても近いところにあって、どちらに向かっているのかわからなかった。
どちらにも向かっていたと思う。
私は危うく死ぬところだった。
かみさまは正しい。
生きること、を求めることは正しい。
わたしはキリストを信じているからそれを正しいと言う。
皆々なにかしらのかみさまがいるのだろうと思う。皆々なにかしらの信仰があるのだろうと思う。
それで良いと思える。
聖書は、イエス・キリストが真に救い主であると、万人が信じることを行き着くところとしている。今は終わりの時代にあるという。
これまでは手の届かないところにまで、手が届くのだと信じ込んで思い詰めていたが、世の終わりを見るのはわたしでなくとも良い、と感じてからは楽になった。observerはそこにあることが意味を成す。隣人がなにを見てなにを信じるかまで、すべて神のご計画のうちにある。
許すも裁くも私の領域にはない。
わたしがすべきはキリストを穏やかに信頼し、賛美し、神に愛されたように隣人を愛すことだけだった。
愛は祈りと赦しを含んでいる。これは決して縋るものではない。
奔流のように惜しみなく与えられている愛を隣人にも同じだけお裾分けすること。
あかるく、憂鬱でありたい。
わたしは祈るための機構でありたい。直線的なやさしさを持つことは難しく、そもわたしにはない。
その代わりに、深度のあるやさしさを携えていたいと思う。
「回復」と「植物」について考えていたときに、フィトンチッドのことを思い出した。
傷付いた植物が周囲の生物を殺す為に出すもの、を人間は清々しく感じるらしく、おもしろい。
今、回復の最中でふと魂に目をやると、わたしはこれほどまでにあかるかったんだ、としんみり思う。
陽の光の下では目立たないかもしれない、けれど、洞窟の中では足元の頼りくらいにはなれるかもしれない。真昼にはよくわからなくても、夜になって灯っていることがわかるなら、こんなに素朴で嬉しいこともない。仄かな灯、これも、とても綺麗なことなのではないだろうか。
ここは決して暗くない
考えることがたくさんあるなあ。うれしいなあ。
何度も引用しているけれど、こんなときはいつも三四郎の一節を思い出す。
暑い日が続いている。皆々快く過ごせているといい。息災だといい。
祈ってくれる人がいるから祈ることができる。
夏は眩しくて騒がしいから生きた心地がしない。
わたしは冬に咲く植物なのだと思ってやり過ごそうと思う。はやく冬が来るといいな。
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