私たちは水がないと生きていけないけど、水は私がいなくても存在し続ける 私達は環境に依存している

発達と学習のレポートが我ながらよく書けたので、一部載せときまつ

最後の方はエヴァンゲリオンのテーマでもあるそうで


例えば、生徒が宿題をやってこなかったら先生や親は怒る。この際の理由は大きく二つあって、一つは先生や親の、①「どうしていうことを聞いてくれないの・この子のために本来なら必要なかった手間がかかってしまう」ということへの怒りである。そしてもう一つが、②「このままだとこの子のためにならない・将来苦労してほしくない」という理由で、あえて厳しく言っているという場合である。この際、先生や親が子供に無意識に求めているのは、①への謝罪と、②への行動改善である。
しかし、この鞭型の指導では、「勉強しなければ先生は怒るが、勉強をすれば怒られない」という、マイナスからゼロへと戻す意識しか子どもに与えることができない。反対に、オペラント条件付けからみられるような飴型の指導では、「自分が勉強をすることで喜んでもらえる、認めてもらえる」といったゼロからプラスへの意識を形成することが可能である。この意識は、「自分が行動することが求められているんだ」という能動的な学習衝動に変わる。これはマズローの欲求5段階説の中でも高次元にあたる、社会的欲求や承認欲求を満たすのに必要なことである。
つまり、行動の結果が形となってポジティブな形で示され、自己の欲求が満たされるという指導の在り方をとることは、子どもたちの自発的な自己実現への基礎になりえるということだ。また、学校という場において、子どもたちの社会的欲求が満たされることは非常に意味を持つ。なぜなら、子どもたちにとって学校とは一つの価値観を形成するコミュニティであり、そこでの自分の立ち位置は彼らの自己評価と深く密接しているからだ。そのため、自分の行動がコミュニティに歓迎されている、形として影響を与えることができている、という感覚を与えることは、子どもにとってプラスの影響になる。簡単に言うと、教師に頑張りが認められたという感覚は子どもの自己評価を上げる。


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人間は環境に一方的に依存した存在であり、環境から無条件に求められているという状態にあることは少ない。それ故に、何らかの成果や成績を、自分が属するコミュニティからの評価として認識する。ただ、この成果や成績に依存した状態である人間は統計学的にみると、同様の状態にある他者との交換が可能であるということになり、自身が唯一無二の存在であり、かけがえのない存在であるという感覚にはいたらない。我々はすべてそれぞれに欠けたところがあり、それ故に他者と補い合い、欠けたピースを埋めあうように存在しあう。それはいわば共依存的な関係でもあり、環境―人間の関係とは違う、人間―人間の関係である。しかし、このような共依存的関係にあっても、人間はそれぞれに自我を持っており、他者と一体になることはできない。それゆえ私たちは共依存の関係では、互いに傷つけあい、離れられなくなってしまう。
このような事態を避けるため、我々はぶつかりあうなかで適切な距離感を見つけ、自我を保ちつつ他者と関わっていく必要がある(ヤマアラシのジレンマ)。しかし一方で、我々はもっと深く分かり合いたい、同体化したいと思ってしまうものである。これが対人関係の難しさである。


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