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#BFC5 ジャッジ終わった日記、1回戦評、およびジャッジからの伝言


ジャッジ終わった日記


BFC5でジャッジとして参加しました。
リンクを記事途中に貼ったので、興味ある方はそこから飛んでね。

こんな感じでやっていったぞ

ジャッジ規定
1)担当作品すべてに言及した評を書く。枚数は400字詰め原稿用紙2枚~5枚程度。
2)16作品すべてに5段階で採点(5段階、5点が最高)する。
3)AB各グループの勝ち抜けを一人選ぶ。

げんじつ
 原稿用紙11枚くらいになってしまったうえ、スケジュール的に字数切り詰めができず、でも「後からBFCを追いかける読者や作品にとってはこんな評があってもいいだろう」という気持ちで、長いまま出しました。これは本戦に3度出場したことのあるファイターとしての感想なのだけど、BFCに作品が載ると、Twitterでよい感想がたくさん出て本っ当にありがたいのだけれど、どんどん流れていってしまって、祭りが終わった後に追いかけてみると、「ジャッジの評だけが全体の感想」みたいな雰囲気が出てしまう。あとから見るとそういう感じが出る、他の感想が見えないから。そういうとき、あれで減点これで減点これは加点みたいな評が多いと、なんていうか悲しい。で、今回は字数的にそういうのが多そうな気がして、だから規定違反だろうが勝ち残れずに終わろうが構わないから、作品にとって言うべきことを言おうと思いました。言い訳に聞こえるかもしれないけれど。まぁ蓋をあけたら、字数内にうまくおさめたジャッジもいたので、ふつうにすごいなって思いました。目八ジャッジ好きだったなぁ。おれがファイターだったら推してたなぁ。あ、あと!!!

 高遠みかみさんからのこのジャジャは嬉しかったな!!!(他の方のジャジャも嬉しかったのだけど、特にね!!)(それはおいおい追記しよう)
 ともあれ面白い作品ぞろいだったので、未読の方はぜひ読んでみてね。未来の文芸に幸あれ!



冬乃くじ採点

Aグループ 35433354
「幽霊になって三日目」短歌よむ千住 3点
「庭には」鳴骸 5点
「火葬場にて」卜部兼次 4点
「ブンゲイテクノ」DJ SINLOW 3点
「雨、或いは」中川マルカ 3点
「雨」仲田詩魚 3点
〇 「スイカ弾き」藤田雅矢 5点(勝ち抜け)
「麺 shock!!」萩原真治 4点

B グループ 34554343
「歩み」和生吉音 3点
「サマー・アフタヌーン」海野ベーコン 4点
「CWON善光寺街道」首都大学留一 5点
〇 「2005」如実 5点(勝ち抜け)
「収集癖」高遠みかみ 4点
「親が死ぬ前にすべきこと」東風 3点
「変身?」通天閣盛男 4点
「死にの母」蜂本みさ 3点

冬乃くじ個別評

『2005』

 地球上にはたくさんの宗教がある。それぞれに物語があり、神がいる。宗教の物語は、科学の進歩と共に見出されてきた法則とはどこかかけ離れたところがあって、だから家庭や社会で押しつけられない限り、無邪気に信じることはできなくなった。それはたくさんの物語を失ったことと同義で、無神論者はある種の豊かさを失った。神のような存在がいれば得られたはずの心強さを、無神論者は目の前の人間や動物や植物や、空気や光や数を愛することで得る。無神論者の抱くさびしさは、他人の語る物語に納得しきれないさびしさであって、ある豊かさを欲したならば、自らで語るしか方法はない。
 本作は、一人の無神論者が、心の拠り所となる物語を見つけたときの記録である。この物語なら納得できると確信したとき、さびしさはやわらぐ。自分にばかり向いていた目が他の誰かにも向き、共有したくなる。けれど生まれたばかりの物語は、ひとたび他人から攻撃されれば色褪せてしまいそうなか弱さをもっていて、そうしたことも承知しているので、語りは自然と慎重になる。おずおずと、しかし握りしめた確信と愛を決して手放さないように語る。一言で語ろうとすれば取りこぼすもの、言葉を尽くすことでしか近づけないもの。見えず、聞こえず、触れることもできないが確かに存在するものを、平易な言葉で顕現させた。その稀有な才能を、決勝の場でも花開かせて欲しい。(★勝ち抜け)

『収集癖』

 互いに無関係な語りを、空間や属性と組み合わせ、並べることで広い世界を示す。一見、生活史の聞き取り調査のようにも見えるが、語りから結ばれる世界はあきらかに異質で、詩的だ。
 地の文を持たないゆえに、モチーフの組合せが重要になってくるが、本作品のモチーフの選び方は寺山修司(1935-1983)を彷彿とさせる。船乗り、娼婦、浮浪者、母、ピアニスト、ユリシーズ、少女、四月×死などは特に寺山が偏愛するモチーフであり(ベッド、くちびる、何かが濡れている描写も偏愛しているが執着度において次点)、物や言葉を羅列させる形態は「財産目録」や「トランプことば」といった形で寺山が好んで用いた手法だ。どちらも寺山の専売特許ではないが、肺尖カタル(~1945年あたりまで国民病)や盲人(現在は視覚障害者と表記するのが主流)、冷戦(1947-1991)といったモチーフの時代性まで加味すると、2023同時代ではなく過去を意識せざるを得ない。とすれば本作はオマージュ、もしくは寺山の詩的世界を本歌取りした作品と読んで構わないだろう(寺山自身、本歌取りのような発想で詩作しているものがいくつかある)。注目すべきは本歌になかったモチーフで、それこそが作品の核となる。
 すると浮かび上がるのが天災と宗教にまつわる記述だ。各地で洪水が起こり、2年続いたところもある。2年前に彗星が近づき、経済が傾く。大洪水と彗星は旧約・新約聖書を思わせるが、仏教徒やイスラム教徒の語りも登場する。天災を背景に人々は語る。てんでばらばらに、己の生きている場所と人生を背負って。これらの語りを「収集」できる者とは、おそらく神のような存在だろう。天災を起こし、反応を気にかける。人間が自らを神と呼び物語化する様子を眺め、生の一瞬をきりとった言葉を集める。そこに人間以外の語りが見受けられないのは、人間が語るより前に神は存在しなかったからかもしれない。人間が語ることで生まれた者が、お気に入りの語りを収集することで、己が己であることを強めていく。人間が語ることをやめるとき、神のような存在もまた消えるだろう。
 だが本作の最大の魅力は、このようなことを考えずとも、単語の組み合わせによって一言の語りが深みをもつ面白さにある。「ほら、転調した/ ――床屋」のもつ空間と時間の特別なきらめきを、わたしはこれから折に触れて思い出すだろう。そういう宝物のような言葉が、読めば必ず見つかるはずだ。

『親が死ぬ前にすべきこと』

 状況がわからぬまま、謎を解決する手がかりと思われるものが散りばめられていく進行の、ミステリタッチの作品。致死を思わせる異臭の中、謎が謎を呼ぶディテールは見事だ。謎の答えや、論理的にそれを導き出せる伏線が明確には描かれないので、論理的思考というよりは妄想で補うしかない。それをミステリ的な欠陥ととる見方もあるだろうし、ミステリタッチで「わからない」世界へ連れていく作品ととらえることもできる。
 本作における大きな謎は2点で、「①二人の得ようとしている絵はどこにあるのか?」「②二人はなぜ殺されそうになっているのか?」だ。①の答えは示されないが、画家が「これまで描いた絵をすべて白紙に戻した」「人間の顔をキャンバスにして顔を描きかえている」可能性がラストで示唆される(ように思われる)。②の答えも本文中で示されないが、強いて言うならばそれこそが「親が死ぬ前にすべきこと」だからだろう。それではなぜそれが「すべきこと」なのか。遺産争いを起こさせないためかもしれないし、子どもの顔をキャンバスにしたいマッドペインターが思い詰めた結果かもしれない。だがおそらくはもっと個人的で、なんでもない、他人には理解できない理由なのだろう。人間は因果関係だけで生きているわけではない。作者の思惑がどうであるにせよ、作品は不可解を肯定する。

『変身?』

 不条理を背景に進むコミカルな会話劇が、不条理そのものに押しつぶされる瞬間を描く。
 この作品の白眉はラストシーンで、ラストの光景のためにラスト以外が存在すると言っても過言ではない。原稿用紙6枚のうちほとんど1枚を使って、落ちてくる石に書かれた名前が列挙される。そもそも原稿用紙6枚という規定は小説、特に口語の会話が多く混じる小説には不利で、人物名を短くしたり改行を削ったり「」を省いてみたり、血の滲むような推敲の末に作品が出来上がるのだが、そのうちの1枚をこの演出に費やすというのは、表現に対してよほどの確信と意欲と勇気がないとできないことで、まずその一点において、同じ書き手として敬意を抱いた。
 ラストの表現は、小説を読むという行為における視覚と聴覚への企みで、例年のBFCの「縦書きの画像」で戦う仕組みを念頭に書かれている。縦書きで並ぶからこそ、永続的な雨の表現になる。名前がすべて漢字なのは、ビジュアルとして直方体の石が降る様子を表現するためで、「」の会話が続いたのは最後に石と置き換わるため。平仮名やカタカナが加われば石の感じは削がれたし、置き換わるイメージはもてなかっただろう。また、すべて漢字だからこそ、雨が降って地に落ちて、一滴一滴が形を失い、水という集合体になる感覚をも喚起される。
 そして何のために冒頭から巨大な虫がいるかと言えば、ラストの不条理を飲み込ませるためだけでなく、石がどの程度の衝撃で落ちてくるかを伝えるためだ。畳に打ちつけられるゴトン、ゴトンという音は石の大きさをあらわし、ラストの光景で鳴り響く音のひとつひとつがどんなものかを物語る。余談だが、和室で手持ちのいろいろな石を落としてみたところ、ゴトン、ゴトンと鳴ったのは、小さめの稲荷寿司くらいの大きさの石が、高さ30センチくらいから落ちたときだった。ということは、すべての石は天から降るのではなく、名前を持つ者の、ほんの少し上から降ってくるのかもしれない。
 もう少し練ってもよいところもあった。カフカ『変身』については読者にやさしいのに、ウルトラマンAについてはやさしくないところとか。個人的にはウルトラマンAでマジの爆笑をしてしまったが、オールド特撮ファンにしか通じないし、中身がわからないと通じない固有名詞を出すことは、作品の普遍性を低めてしまう。同様のことは、第1回BFCの会話劇『アボカド』(金子玲介)のダイヤモンド☆ユカイにも言えるのだが、あちらは「~☆ユカイ」を二回重ねることで、通じない読者が離れることを若干回避しているのと、使う要素が響きだけなので、ダイヤモンド☆ユカイが何であるかを知らずとも読み進められる内容となっている。ひきかえ本作のウルトラマンAは、Aに変身するのが北斗と南の男女ペアであることを知らないと立ち止まってしまうため、扱いに注意が必要だろう。仲間全員にウルトラマンAネタが通じると思い込んでいる男子学生がこの中にいるのはなんかちょっと面白いけれども。

『死にの母』

 幻視が現実にぬるりと入り込み、記憶の中で徐々に鮮明になる。静かに祖父の足元に座る巨大な女を、主人公は「死にの母」と呼ぶ。描写と語りの巧みさの際立つ作品で、エッセイのようにも見えるが、新しい怪談のかたちをも予見させる。
 日本において、怪異は女の属性をもつことが圧倒的に多い。○○女や○○婆。男の怪異は少ないが、いても○○小僧や○○わらしといった子どもの怪異、それから○○坊主や○○入道といった宗教者がほとんどを占める。こうした構図は、マイノリティを妖怪視していた男系社会の結果と推察されている。メインストリームである成年の男が怪異になるのは政争などに負けた時で、神として祀られることもある。(参考文献:朝里樹『日本現代怪異事典 副読本』)
 本作の背景にも家父長社会がある。一人の人間が死んで焼かれて骨になり、あまつさえぱしゃんと割れてしまった流れを話すとき、「腹がひきつれて言葉が接げなくなるほど笑っ」てしまうのは、祖父という寡黙な権力者の支配が事実としてあり、それを容認・従属していた者たちがささやかな抵抗を心のどこかに抱いていたからに他ならない。もしも権力関係が逆であったなら、この笑いはグロテスクなものとして読者の目に映っただろう。支配者が死によって力を失い、最後に保たれていた物質としての威厳も、なんとなく従っていた被支配者の頼りない手つきによって、はからずも破壊された挙句「あっ」の一言で終わる。おそらく女である主人公は、祖父に支配されている事実も、被支配者であることを甘受する母の弱さも、容認していたが決して心からではなかった。だからこそ、この場面に滑稽さを見出しているのだ。
 家父長社会において、女は人格を持たない。母になった女は母以外の何者になることも許されなかったし、母でない者は性欲あるいは揶揄の対象となった。本作の、葬式=霊を祀る儀式の対象が年長の男であることや、その周りに母という役割を負った女が虚実交えて多く登場する構造は、偶然ではない。ただしこうした構図に、作者がどこまで自覚的であったかは疑問が残る。
 家長は死に、骨は塵となって、物語は始まった。にもかかわらず、主人公はよるべなさに打ちのめされ、途方に暮れている。現実ではない方の「母」に安らぎを求め、「ここに来る前の世界へ連れ戻し」て欲しいと願う。納得できない物語をもつ神を失った者たちの憧憬、形容できないさびしさがそこにある。暴き出された率直な原風景に、痛烈な懐かしさを覚える読者はいるはずだ。


ジャッジからの伝言


 こんにちは、冬乃くじです。BFCファイターとしての気力を昨年の優勝で使い果たし、ばったり倒れていたのですが、「ジャッジ応募数が足りない」と運営から追加募集があったため、そんなら頭数になるか、と起き上がりました。でも蓋を開けてみたら、良さそうなジャッジが揃っていた上、ファイターの作品がどれもレベル高くて、妙に安心してしまって、今年は選評ではなく、純粋な作品評にしようと決めました。評を読んだ読者が「もう一回読んでみよう」と思える評を書くことを目指した感じです。なんとか成功しているとよいのですが。

 それと、この原稿が載る頃には終わっているとよいのですが、10/7から1ヶ月以上、パレスチナのガザ地区で、イスラエル軍による大量虐殺が続いています。本当に酷い映像や画像が毎日流れてくるので、自分の精神安定のため見ないようにしている方もいると思います。それはそれで大切なこと。でももし、「問題が複雑そうだし、事情がよくわからない自分は意見を表明できない」と思っている方がいるのなら、パレスチナ問題の第一人者であるイラン・パペの書いた『パレスチナの民族浄化』という本だけでも読んでみてください。1948年のイスラエル建国(アラブ人追放とパレスチナ占領)から2023年現在に至るまでの占領と圧政、過去4度の大量虐殺、そして今回のとてつもない大量虐殺を行うふるまいが、すべて「民族浄化」という同じ目的で動いていることが、わりとすぐにわかると思います。イスラエル政権が「テロ」と呼ぶハマスによる攻撃は、突然あらわれたものではなく、75年もの苦しみの末であったことも容易にわかります。読んだ方は、その話を周りの人にして欲しい。パレスチナの自由を叫ぶのであれ、イスラエルを擁護するのであれ、読んで意見を言葉にして欲しいのです。

 本を読めない人にはこんな呼び掛けはしませんが、わたしたちは読める人間なのだから、まだの方は読んでみてほしい。あなたの作品がイスラエルの文学賞をとるかもしれないでしょう?

 2008年末、イスラエルによるガザへの最初の大規模な空爆と虐殺の直後、エルサレム賞受賞の知らせを受けた村上春樹は、賞を受けとるか悩んだ後、自分の目でイスラエルを見るため、イスラエルの人たちに話しかけるために賞を受け、「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立つ」と有名なスピーチをしました。

 それから15年、状況は悪化の一途をたどっています。2023年のいま、拭いきれぬほど血塗られた賞を受けてまで村上春樹がスピーチするかは不明ですが、皆さんはどうしますか。賞を受けますか? 世界が注目する中、どんなスピーチをしますか? 2023年の虐殺中、何を思い何をしていたのか聞かれたら、どう答えますか?



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