見出し画像

エゴン・シーレというフィルター

 エゴン・シーレの絵を観る機会が訪れた。以前から観たかったのだけれど、ワクワク感はあまりなかった。それより懐かしい人に会いにいくような感覚。もし観れなかったとしてもいいか…って思う程に。
(見出しの絵は、「菊」です)

 いざ展示室の中に入ると、胸の高鳴りというか、ずっとドキドキが止まらなかった。途中で同時代に関わりのあるウィーン分離派の画が飾られていなかったら、高血圧の私には耐えられなかったかもしれません。笑

 シーレといえば、やっぱり人物のデッサン力、自画像ですね…。風景も植物も好きなのですが、人物デッサンの魅力からは逃げられない。どうしてこう表現されたのか…。そんなことを考えながら絵を一枚一枚観ていった。ぱっと見、現実のものとはかけ離れた様子が描かれているだけれど、絵の中の人(自画像含め)は、巧妙に繊細にその人が描かれていると感じてしまう。人が生き物として存在することの神秘的な美っていうのかな、そんなのを感じて胸が熱くなっていく。

在るものが、シーレの目を通して心?身体?を通りぬけ、鉛筆や筆を使って現れ出た映像なのだろうな…シーレというフィルターを通り抜けたのだな…、そう思った。そのフィルターに興味は向いていった。

シーレは、幼少のころに既にその天才ぶりを見いだされ、それなりの環境で絵を学んでいたようだ。学校という枠では納まらずに飛び出して行く。自画像を多く描いていて、自分への興味は尽きなかったようだ。28才にスペイン風邪に侵されて、生涯を閉じている短い人生。

写真を撮る事においても、フィルターはある。同じ風景や花を撮ったとしても、同じにはならない。絵ほどの自由度はないかもしれないのだけれど、それだけに神秘が纏う。レンズを透しただけでも変わってしまう。変わってしまうけれど、その時目にしたものを目に見えないもの含めて表現していることに間違えはないと感じる。

フィルターを通って表れたものは、通り抜けたものなのか、フィルターに残ったものなのか…。いすれにしてもフィルターは人それぞれ違って一つとして同じではないから、表現されるものも一つとして同じものは無い筈。

鑑賞する側のフィルターもあり、観る者の目に映るもの、心体に触れる、あるいは沁み入るものも違ってくるのだろう。私と同じように感じ表現する人はない、あなたとは違う。だからあなたのフィルターが気になるし、知りたい。そう思うことが、人を繋げていくのではないだろうか…。



吹き荒れる風の中の秋の木(ポストカード)

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