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おばあちゃんの家だ

寝室の電気を点けて、居間の電気を消していた。
寝室に向かうには居間を通る必要があり、トイレから戻ってきた私は居間の扉を開ける。
そしたら、寝室の部屋から漏れる光が居間へと差し込んでいて、咄嗟に「おばあちゃんの家だ」と思った。

どうしてなのかどうとか考えるより前に「おばあちゃんの家だ」という感覚だけがあり、あとから「なんでそんなことを思ったんだろう?」と考えた。

隣の部屋の明かりが暗い部屋に差し込む様子なんて実家でも何度も見てきた光景のはずなのに、私はおばあちゃんの家を想起した。
トイレから出て、擦りガラスの窓から廊下へと漏れる居間の光。早朝にトイレで目が覚めて、トイレへと向かったら、もう既に起きていたおばあちゃんが立っている台所の光。暗い洋間に自分の荷物を取りに行った時の、居間から差し込む光。そんなものだろうか。

なんてことない風景だが、思い出すと何故か胸がキュッとなる。郷愁?

私の中でおばあちゃんの家は特別な存在で、なにかおばあちゃんの家を想起させられるものを見聞きすると胸がキュッとなる。いいな、戻りたいな、という気持ちになる。
思い出す記憶のおじいちゃんとおばあちゃんは元気でちゃきちゃきと動いているし、なんだか家の中に活気があって、時間の流れは緩やかで、別世界みたいに感じる。

線香の匂い、目玉焼きとプチトマトとベーコン、小松菜と豆腐の味噌汁、チラシで作った箱、古い扇風機。

家はまだ残っていて、父と母がそちらに住んでいるから盆と正月には帰るのだけど、それでもあの頃の家とはまた違う。もう二度とあの家には帰ることが出来ないのだ。

実家に同じような感情を抱くことはあまりなくて、それが不思議だ。やたらとデカくて重い学習机とか、私の寝相が悪すぎて穴の開きまくった襖とか、狭くてぎゅうぎゅうの机とか、あまりそういう物を思い出してキュッとなったりしない。不思議だ。団地だからだろうか。団地だからって、別にそんなことないか。

もう無いものを懐かしんでメソメソするばかりで、いまあるものを大事に出来ないところが私の悪いところだね。そうやってまた、なくなったあとに後悔するんだね。

今月は母の誕生日なので、なにか贈ろう。今年こそは、誕生日までにちゃんとするぞ。



サムネは関係ない、水族館でみたエイです。
目がちっちゃい。

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