映像研には手を出さない

映像研には手を出すな!の8巻を読んだ。今回は内部政治や世間という枠組みに囚われた大人たちを主人公が打破していく。と言うお話だった。と、俺は解釈している。とても爽快だった。

今回のお話では、世間の抑圧に負けた審査員が映像研のアニメに心打たれて、映像研には負けねぇ!と奮起して終わった。映像研に手を出して、価値観が変わっている。

この漫画において、映像研に手を出している人たちは映像研によってなんらかの心理変化が起きている。それは口論によってだったり、アニメを見てだったり。

それは読者も同じことで、映像研には手を出すな!を読んだことにより、創作の意欲が湧き出る人は大勢いると思う。俺も湧き出る。

でも、俺は、いやおそらく大多数の人は、「まあ、フィクションだからな」(あながちフィクションでもないのも重々承知しているが)と思って、一過性のモチベーションを腐らしてまた、通常営業に戻っていくと思う。

映像研には手を出すな!を読んで、実際に映像研のようなことに手を出す奴は、そのままクリエイター街道をひた走ればよいが、映像研には手を出すな!を読んで本当に手を出さない凡人たる人間はどう生きればよいのだろうか。

俺はこの漫画が好きなので、この漫画を否定した答えを出したくないと思っている。矛盾になるかもしれないが、なんとかいい着地点を見つけたい。

映像研には手を出すな!の何巻かのラストで浅草氏が「やりたいことをやりたいようにすれば良いのだ!」と述べている。全くその通りである。しかしながら、労働や勉学に勤しむ我々はやりたいことがあってもできなかったり、やりたくないことをやって疲れちゃう時もある。だからこの言葉に囚われると、かなり疲れる。

だから、映像研の金森氏の言葉を借りる。俺は愚か者なので他人の言葉を借りて自分の意見にして、勝った気になろうと思う。
「理解してくれない他者に気を取られると人生が崩壊しますよ」
これは、関係ない他人のことは気にするなという意味だと思うが、ここで言う「他者」の中に自分を含めてもいいと思う。大きな目標があるけど、つい怠けちゃう甘えた自分とか、そういう「本来は打ち消したい自分」というのも受け入れても良いと思う。
他人とか、なりたい自分とは違う自分とかに気を取られず、漠然と欲求に任せて生きて、ゴミカスみたいな人間になったとしても、この大きな世界ではかなり些末な事柄である。
もし、自分を世界とかと同じくらい、大きな比重で考えているのであれば、やりたくないことがあっても、やりたいことのためにやるべきだし、それこそが「やりたいことをやりたいようにやる」の一つの形だと思うからぜひ頑張ってほしいと思う。

そして、映像研には手を出さない、社会の歯車になってると自覚してる者たちは、思いっきり歯車を謳歌すればいいと思う。そして、休日があれば、それを謳歌すればいいと思う。
これも、やりたいことをやるために、やりたくないことをやる。と言う、「やりたいことをやりたいようにやる」の形だと思う。

映像研には手を出すな!と言う漫画は、何か生産的なことをして実りのある人生をしよう!と言う啓発的な意味はなく、己の欲望のまま、全力を注いでいる人たちを眺める漫画である。そこにどう意味を持つかは人それぞれであって、何も、浅草氏達のような人生が正解というわけではない。
普通にコンテンツを貪り食って、たまに何か思いついたらそれをアウトプットするという自己表現、自己実現でも十分だと思う。ただ、頭の中のものを頭の中のみで完結させるようなことをしなければ良いんじゃないか、と思う。

映像研には手を出すな!を初めて読んだ大学だか高校だかの俺がこの記事を読んだら、多分俺は俺をぶん殴ってると思うが、クリエイターという土俵に上がる気もなかった自分としてはいい着地点だなあと思った。

俺は映像研には手を出さないが、目を向けて応援したいと思う。

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