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信ワクチン・反ワクチンの両陣営が知らない本当の真実


Xのトレンド欄を見ていたら、反ワクチンというキーワードが目に入る。別に珍しい話でもなんでも無い。きっとワクチンに対して極端なイデオロギーを持っている人が、またもや罵り合っているのだろう、という気持ちで投稿を目にやると予想通り。ざっと確認して画面を遷移。さようなら。

私は個人的判断でワクチンを接種していない。当然、ワクチンを打っていない友人もいるし、ワクチンを打った友人もいる。

私がワクチンを接種しなかった事実に対し、攻撃的な態度をとられた事などほぼ無いし、ワクチンを打った友人に対しても、特に言うことは無い。

ただし、正直なところワクチン接種後に片腕が上がらなくなった人もおり、母も長いこと原因不明の湿疹に苦しんでいたので、接種三回目以降くらいから、ワクチンをさらに接種しようとする人には、このような事例が有ることを伝えている。

さて、私ごとはもう良い。私は信ワクチンと反ワクチンの皆様が知らない、本当の真実を知っている。

それはワクチンの薬効だとか、ワクチンが有害だ、とかそういう話ではない。

そもそも「ワクチンの接種・未接種」に関して、私達が現実世界やインターネットで罵り合う必要が、全く無いという真実だ。

少し冷静になって考えていただきたいのだが、ワクチンが有害というよりも、私にとって「ワクチンについて異なるイデオロギーを持つ他者を、叩かざるを得ない」という一種狂気的な心理状況はとても有害だ。

そもそも、日本人同士が仲良くいることはとても大切だと思うのだが、どうやらSNSの普及と比例して事あるごとに陣営化、他陣営を叩き勝利することが目的になってしまった人は多いと思う。

もともと、政治の分野で「左翼・右翼」の両翼が叩き合っていた経緯も有るが、どうやら異なるイデオロギーを叩く事に全力になってしまう人が多いと思う。

正直なところ、私のイデオロギーにだって偏りは有る。私は割と反ワクチンだし、政治信条としては割と保守派だ。

それにトランプ大統領のことだって少し期待して見ているし、ディープステートだって存在しているだろうな、くらいには思っている軽度の陰謀脳である。

なので、特定のイデオロギーを持つこと自体はなんも問題は無いというスタンスだ。

しかし、私とは異なるイデオロギーを持っている人間を、攻撃しようとは思わない。ただ、私が知り得た情報や私自身の考えを伝えるだけで、別に説伏しようなんて思ってはいない。

仮にワクチンが有害だったとしても、この「反対のイデオロギーを全力で攻撃してしまう」ことはワクチン以上に有害だと思っているからだ。

そもそも、自分が正しいという考え方は非常に間違えている。

なぜかというと、若かりしころの自分の考えを振り返る限り、間違い探しはウォーリーなんかよりも沢山見つかってしまう。

中年期に入った現在も、やはり自分の選択や一挙一動が正しいのかそうでないのか、しっかりと振り返って確認しなければ、成長する事が出来ないと考えている。

つまり、いくら強烈なイデオロギーを振り回したり、振り回されたとしても、いつかは変遷してしまう可能性というのは常時存在しており、今現在、何が正しいのかと判断することは容易ではなく、どちらかというと時が経過した後に、振り返ってやっと判断が出来る事も多いのだ。

しかし、どうもこの強烈なイデオロギーの持ち主というのは、「自分が絶対に正しい」という立場からのみ発言をしている傾向が強く、これはどちらの陣営にとっても同様で、挙げ句の果てに「信ワクは馬鹿」もしくは「反ワクは馬鹿」という幼児レベルの罵り合いに発展しがちだ。

ここで謝罪するべき事が有るのだが、私もわりとこういったところが過去にあった。SNSで自分とは異なるイデオロギーを攻撃していた時代が有った。申し訳ございません。ただ、自分の行いが不毛であると気付いた瞬間が有り、私はそれを辞めた。

なぜか。

こういった強烈な信念を元にした情報発信の果てに、ビジョンは有るのだろうか、と思ったからだ。

SNSを見ている限り、どうやら「完全に自分の主張が正しかったと思える日がやって来て、反対陣営が地団駄を踏んでいるのを見てマウントを取りたい」という程度のビジョンしか持ちえていないのでは無いかと思えてしまったのだ。

しかし、本来このワクチンに関する問題で持つべきビジョンというのは、いつかこの疫病と向き合った結果、人類全体が健やかに生活出来る環境を手に入れることであって、つまらない喧嘩では無いはずだ。

当然それは政治に関することも同様で、やはり自身のイデオロギーの正当性よりも、国民が安心して豊かに生活出来ること以上の目標は存在しない。

それにこういった諸問題に向き合う中で、自分とは違う他者との関係性について、しっかりと考える事が出来る。油断していると様々なところで争いや諍い、摩擦が発生してしまい、我々は時にくたびれてしまう。

この徒労が絶対に必要かと思うと、どちらかというと減ったほうが良いと考えている。

SNSで、他者の考えが可視化された時代の中で、言葉の選択はとても重要になってきてしまったな、と感じる。

そのくせ時代は忙しく慌ただしく、恐らく美しい言葉を使う為の修練に割く時間も亡くなってきてしまっていると考えると、どうにもやるせない。

とくに140文字で真に迫る言葉を発する、ということは並大抵の国語力では難しい。

我々はいつ、この「情報石器時代」を終える事が出来るのだろうか。


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