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性善説の限界が来ているような気がする

はじめに~今日は愚痴です~

なんというか、性善説で物事を考えることは難しくなってきたなと感じています。今日はこれについて書きたいと思います。

ルールは守るもの?

大抵の人はそう教えられてきたし、そう信じているかと思います。でも、自分や自分の周りを見てもみんなルールを守っているのか?ということを考えてみるべきかと思います。
多くの人はルールを守るではなく自分にとって必要なルール不要なルールに無意識に分類し、不要なルールは無視する傾向があると思います。
なお、ここで言うルールは法律とかで決まっているようなものではなく、多くの人がこうするべきだと思っていることとだと思ってください。
たとえば、ゴミのポイ捨て、行列への割り込み、他者への気遣いをしないなど。小さいことから大きいことまで色々。とにかく、結構人間は身勝手です。

ルールを守るのはペナルティがあるから

わかりやすいのは逮捕ですが、それ以外にも例えば今の家に住みにくくなったり、お店で居心地が悪くなったり、色々あります。
だから、そうならないように自分でルールを選択しつつ、ここだったらこの辺のルールまで守れば良いかな?と思って動いています。

実のところ、多くの人がそれなりにペナルティを恐れてこの判断をしていれば、特に問題は起きないでしょう。

でも、今は例えルールを破っても、何とか生きていける世の中になってきました。長い間かかって獲得した自由の副産物です。
自由であることは尊い。でも、だからこそ制限されないように自分を律して行かないといけない。せっかく獲得した自由を失わないために。

逮捕されなければ何をしても良い?

そんな訳ありませんよね。でも、多くの人の「必要なルール」「不要なルール」の判断基準が「コミュニティから追い出されない」から「逮捕されない」に変わってきているように思います。
正直、「コミュニティから追い出されない」というのはなかなか厳しい条件です。でも、今でも生きています。小さいところでは学校のクラスといった単位、友だちグループ、ちょっと大きくなると会社とかもこれに該当しますね。ただ、会社に関しては「追い出す」ということが極めて難しい状況になったので、この条件は適用されなくなってきました。

というわけで、例えば日本国内で生きるというかなり大きいコミュニティのレベルで考えると、かなり判断が自由になります。言い方を変えると結構好き放題しても問題はない。ここでは逮捕されないというのがルールの判断基準です。なんでこんなルールになっちゃったんだろう?と思ったりしますが、理由は結構明快。小さなコミュニティに所属しなくても生きていけるようになったからです。小さいコミュニティは相互に認め合うなんてことが求められるため、ルールを守る方向の力が強く働くのですが、大きいコミュニティでは、誰も細かいことなんか見ない。だから逮捕されないという条件でも十分に生きていけちゃうわけです。

でも、それでいいわけじゃないですよね。

でも、世の中そんなもんです

まぁ、社会に出るまでもない。一番小さなコミュニティの一つ、家族なんてものを見ると、ルールなんてものは大した力を持たないことがよくわかるかと思います。
たとえば、会社が不正をやったりするのも、ルールが軽視されているからですね。ルールなんか守っていたら会社が潰れる。ルールなんか守っていたら納期を守れない。言い訳は色々。その根っこにあるのは所詮ルールなんてその程度としか思われていないということです。

だから性善説は良くない

今の日本の各種ルールは性善説で出来ているように感じます。性善説は、多くの人がルールを守るべきだと考えているということが暗黙の条件です。だから、その考え方をしない人が増えてきたら、いきなり成り立ちません。
例えば、観光客のマナーが悪いなんて話があります。マナーはルールですね。だから、観光客がルールを守るように知恵を働かせる必要があります。
ここで、性善説で考えるといけないんです。例えば警告する看板を立てればみんなが守るみたいなもの。正直、その看板に従う動機が無い人たちについてどう考えていますか?ということです。
結局、ルールのチェックの厳格化と、破ったときのペナルティの厳罰化と言うものが必要になってしまいます。でも、これをやることでわかりやすく判断の基準を動かすことが出来ます。
勝手に畑に入って写真を撮る人たちには、問答無用で反則金(罰金だときついので…甘いかなぁ)を徴収するというルールを適用するしかないのです。
それによるトラブルは起きるでしょう。当然です。でも、ルールを破った人たちにトラブルが降りかかるのは普通のことですよね。これぐらい割り切らないと、もはや秩序が維持できなくなってきているんだと思います。
はい、これはもう性善説ではありません。でも、性善説なんてもう成り立たないのです。

ルールの適用に恣意的なものを含めてはいけない

これがとても大事です。これを破ると秩序は崩壊する。
わかりやすいのが不定期にやる交通違反の取り締まりですね。常にやっているわけではないので、単なる金稼ぎ手段にしかなっていない。たとえば一時停止がそれほど重要ならば、一時停止違反は全て取り締まる。でも、そんな事はしていないですよね。だから、いつまでたっても一時停止をせずに事故を起こす。まぁ、数は減っているかもしれませんが、そもそも環境が常に変わっているので昔と単純比較することは悪くはないけど絶対的な指標ではないと思います。

結局、情状酌量なんてものは性善説が成り立つ世界でしか使えないのです。今は悪いことをした人たちが罪を軽くするための方便になっているケースの方が多い気がする。

何を言いたいかというと

ずるい人が得をする世の中がなかなか好きになれないだけです。
私もずるい人かもしれません。でも、「捕まらなければ何をやっても問題ない」とは思いません。「なんで誰もチェックしないルールを守る必要があるのか?」などと言い放ち、公然とルールを無視するような人間にはなりたくないと思っています。でも、そういう人をいっぱい見てきました。むしろ、そういう人の方が多数派だと感じます。

だから、私は思うのです。

いくら文化が進んでも、本質は変わらないのだなぁ…と。悲しいけど、どうにもならないですからね…

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