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神とニーチェとニヒリズムな現代

「ニヒリズム」はもはや生き方でも、思想でもなく、現実そのものであり、現実を超えた、はるかに強烈な何かである。
亀山郁夫著『ドストエフスキー 共苦する力』p. 9

「ニヒリズムってなんだっけ?」
 今日の気づきは、そんな一つの疑問から生まれはじめた。

ニーチェとニヒリズムな現代

 上の引用元の書籍はまだわずか十数頁ほどしか読んでいない。しかし私は、すでにこの序章内の一節でがっしりと心を掴まれた。
 ニヒリズムとはなんであるか?端的に答えれば、日本語に訳して「虚無主義」と言う。その中身について理解しようとすれば、Wikipediaを参照すれば分かる程度のことであっても、私には少々難しかったというのが正直なところだ。
 それでも、自分なりに少しまとめてみようと思う。

 「ニヒリズム」とは、世の全てのことの根底(あるいは生まれ)は『虚無』であり、行き着く先もまた『虚無』であり、この世に真理は存在しないと考える思想。
 人がどう生きようと、楽しもうと、悲しもうと、全てのヒトは必ず最後は死ぬのであって、その人生に意味や道理を見出しても最後はやはり死である、と捉えること。

 「ニヒリズム」と言う単語をこういったような意味に定義したのはニーチェである。そして、ニーチェと聞いて初めに思い浮かべる言葉といえば、「神は死んだ」であろう。
 クリスチャンとして、私はこの一言ゆえにニーチェに関する書籍は読んだことがない。その知識のすべては高校の倫理の教科書由来である。

 彼は教会牧師の家庭に生まれ、ニヒリズム思想を生み、そして狂い果てて死んだ。

 冒頭の引用文前後は、その「ニヒリズム」こそ、私たちの今生きている現代、またはインターネット・グローバル社会を形容するにピッタリ相応しい言葉であると述べていた。言うなれば、ニーチェは『現代』を予言した、「現代の生みの親」なのかもしれない。
 なればこそ、この『現代』の行く末が、その親と同じく狂気の果てであろうことは想像するに容易いのではないだろうか。

神とニヒリズムな現代

 ところで今日は、2023年1月1日、元旦である。
 みなさん、あけましておめでとうございます。

 教会では主日元旦礼拝が行われ、今年の御言葉が発表された。

わたしは『わたしはある』という者である。
出エジプト記3:14

 直近でニーチェのことなど考えていた私には、この御言葉が目に飛び込んできた時、それはそれは強烈な印象を受けた。
 ニーチェは「神は死んだ」と述べたそうであるが、その何千年も前に、神は「わたしはある」、つまり『わたしは存在する』、『わたしは生きている』、『わたしはあなたと共にいる』と語っていたのだ。そして、今年はなおもありありと、堂々と、その力強いご存在を現すおつもりであることを表明してくださったのである。

 ニーチェを先頭とする「現代」は、今も驕り高ぶりを持って問い続けている。
「神は存在するのか?」「真理などあるのか?」「善や正義を定義できるのか?」

 この御言葉は、それらの質問に対して、とっくの昔に明確に答えを提示していたのだ。
神は存在する。」「真理はある。」「善も正義も神の側にあり、神の反対側にはすべての悪と偽善がある。」

 ニヒリズムに包まれ、満たされ、先導されている現代は全てのことに虚無を見出している。楽しさは一瞬で消え行き、悲しみもやがては忘れ去られる。そして最後は死が全てを呑み込んでしまって終わりなのだと考える。
 しかし神は、そんな現代にも光を差し込み、その闇を照らして病魔を暴こうとしてくださるようだ。私たちの肉体の目では神のお姿を直視することはできないが、しかしその御臨在を感じることはでき、そのお働きを見出すことはできる。今年、神はそのことを示そうとしてくださるのだろう。

 この虚無の時代にあって、なんと明るく、ハッピーなニュースであることか!

 私たち聖書を読む者は、この世の行く末が暗黒に包まれたものであることを知っている。その先にはもちろん神の国、永遠の光の都があることもまた知っているが、闇の時代はますます濃くなり、深刻化していく事実は変わらない。神を知らない者たちは、その闇に怯え、あるいはまるでそんなものはないかのようにはしゃいで振る舞い、我が身の行く末さえ見極めることを放棄していくのだろう。

 しかし、そうあってほしくはない。
 今こそ、光の内を歩む者たちが増えていってほしい。そして、どんな闇の中にいてさえも希望を見出すことのできる、真の神に祈る人になってほしいと願う。
(偽物の神に祈ったところでしょうがないのだから!)


2023/01/01

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