斜め向かいの家(2013年3月23日)

全国苗字辞典とかそういった類いの本で調べてみても掲載されていたことがないほど珍しい私と同じ氏を持つ家が実家の斜め向かいにあって、そこのエイスケという息子が私のひとつ年嵩だったこともあり小学校に上がる前後には一緒に遊んだ。国道へと繋がる抜け道になっていると土地の者なら誰でも知っているがためにそれほど広くない道幅の割に交通量の多い家の前の通りに沿うように作られたドブ川を渡り、畦道の突き当たりのトラックターミナル裏手に堆く積み上げられた廃車の山の中が私たちの主な遊び場だった。ダッシュボードの中やシートの間を浚えば100円200円はすぐに見つけられた。その辺に散らばっている工具を拾い何かの部品を拾えば適当に何でも組み立てた。廃車の山をすり抜けて一番奥に行けば厚化粧した外人女が裸になった雑誌が必ず散乱していて、エイスケが知り合いの大人に売れば小遣いが貰えるからと言うので二人して集めた。集めた物は全てエイスケに渡したが、一度として小遣いの分け前を貰えたことはなかった。

確か夏に未だなりきらない中途半端な時期のことだった。エイスケが家の中で待っていろと言うので一人で上がり込んだことがあった。エイスケの部屋は玄関から一番奥のところにあって、私が知っているのはエイスケの部屋とそこに行き着くまでの薄暗い廊下だけだった。その時の私は不意の好奇心に駆られて曲がったことのない角を曲がり開けたことのない部屋を開けていた。その部屋は外光すら届かないほどに暗く寒く陰気だった。その時の私が部屋の中で寝ている女性が誰だったか知っていてかどうか記憶が定かではないのは開けてはならない部屋を開けてしまったという罪悪感が先立ったからに他ならず、あわてた私は急ぎ襖を閉めてその場を立ち去っていた。エイスケの母親の病名が何だったのかは未だに知らないが、ほどなくして死んだと聞かされた。その後数年して父親は後妻を娶り、10以上も離れた妹を生んだと知らされた。その頃にはエイスケと私とは会うことはなくなっていた。

高校の3年生の時だったと思う。授業がはけて美術部の部室で何をするわけでもなく遊んでいると父親に人間国宝の備前焼の陶芸家を持つ伊勢崎という同級生がお前大丈夫かと話しかけてきた。一瞬なんのことか分からず聞き返せばオヤジが死んだのではないのかというので、そういえばそんな話を昨晩親達が話していたと思い出してそれは隣の家のことだと話した。その日の前の晩にエイスケの父親が呑んだ帰りに川に落ち、打ち所が悪かったのか溺れたのか死んでしまったのだという。その記事を新聞で読んだ伊勢崎の母親が私の家のことと思い、それを聞いた伊勢崎が私を心配したらしかった。それから後妻は新しく夫を迎え入れ向かいの家に一緒に暮らしているという、出来過ぎた作り話のような話をどこからか聞いた。

最後にエイスケに会ったのは小学生高学年の頃で、今では結婚して子供もおり家の近くの百間川を越えた当たりにアパートを借りて住んでいるのだという。いずれ家を改装して越してくるつもりなのらしいと、春に顔見せのつもりで帰った時に親から聞かされた。たまに子供連れて隣に帰ってくるんじゃけどなんか挨拶しても無愛想にしてなあと母親が言い、それでも話しかければその分だけは返してくるわと父親が言っていた。10以上も離れたエイスケの妹が医療関係の大学に進学したのだと、聞くともなしに聞いた。

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