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「學則要覧 日本大學専門學校」:校史関係の学外史資料調査➁

第2期第15回(通算第24回)勉強会報告

 「學則要覧 日本大學専門學校」と題するパンフレットを発見・入手出来た。サイズは縦約19センチ・横約13センチで、表表紙・裏表紙を含めて8葉から成り、表表紙の見返しから裏表紙の見返し迄に頁付け(「(2)」~「(15)」)がなされている。表表紙には「學則要覧 日本大學専門學校」、
「大阪市外長瀬 電話小阪一〇一番」と記されており、しかも表表紙から裏表紙にかけて当時の3階建て校舎の前面の画像が印刷されている。発行年月日は印刷されていない。
 先ず「學則要覧 日本大學専門學校」の内容の梗概を提示すると、次の通りである。
 「(2)」と頁付けのある表表紙の見返しには「日本大学總長 法学博士 山岡萬之助」写真と「理事校長 榊原坤作」写真及び「理事代理 校長代理 小野村胤敏」写真が掲載されている。
 3頁には「日本大學専門學校校旗」写真が掲載されている。
 4頁には「日本大學専門學校 ◇校舎◇」として、3階建て校舎の正面からの写真が掲載されている。
 5頁には上部に「校章」が、下部に「建學ノ主旨及綱領」が印刷されている。この校章は、「日本大学に改称されたのを機に、制服、制帽、徽章(校章)が定められ、明治三十九年九月の新学期に実施された」(『日本大学広報』第618号、平成23年4月8日)とされている日本大学の「徽章(校章)」とほぼ同じものが使用されている。「建學ノ主旨及綱領」は次の通りである。

 6頁から13頁までは「一」から「十一」迄に亘る「日本大學専門學校學則要覧」が印刷されている。
「一」は「本校ハ法律學、商業學、經濟學ノ學術ヲ教授シ併セテ之ヲ考究スル所トス」となっている。
「二」は「本校ニ法律科、商科ヲ置キ其ノ修業年限ヲ三年トス」となっている。
「三」は「入學、在學、退學、休學」についてであり、「入學ノ時期ハ毎年四月一日ヨリ同三十日迄トス」、「學生ハ男子ヲ以テシ之ヲ正科及特科ニ分ツ但特科生ハ定員ニ缼員アル場合ニ限リ入學セシム」とされ、「正科入學資格」・「特科入學資格」更に除籍及び退学についての規程となっている。
「四」は「學期」についてであり、3学期制となっている。
「五」は「授業」についてであり、「授業ハ之ヲ二部ニ分ツ」とされ、「第一部 法律科、商科  第二部 法律科、商科」となっている。
「六」は「休業日」についてであり、「日曜日」・「大祭祝日」・「春期休業」・「夏期休業」・「冬期休業」・「本校創立記念日」が列挙されている。
「七」は「學科課程」とされ、「●第一部學科課程表」として「(甲)法律科」及び「(乙)商科」の表が、「●第二部學科課程表」として「(甲)法律科」及び「(乙)商科」の表が掲げられている。「●第一部學科課程表」の「(甲)法律科」では第一學年は14科目・29時間、第二學年は13科目・29時間、第三學年は12科目・27時間となっている。同じく「(乙)商科」では第一學年は16科目・32時間、第二學年は14科目・28時間、第三學年は14科目・28時間となっている。「●第二部學科課程表」の「(甲)法律科」では第一學年は12科目・26時間、第二學年は11科目・26時間、第三學年は13科目・27時間となっている。同じく「(乙)商科」では第一學年は12科目・26時間、第二學年は12科目・26時間、第三學年は13科目・27時間となっている。
「八」は「試驗」についてであり、次の様になっている。

「九」は「學費」についてであり、「入學試驗驗定料」は「金五圓也」、「入學金」は 「金三圓也」となっており、授業料は次の様になっている。

「十」は「懲戒」についてであり、次の様になっている。

「十一」は「学生心得」についてであり、次の様な諸点が列挙されている。「本校規程」を守り学生の「本分ニ悖ル」言動してならぬ事、登校時は「必ス聴講券ヲ持参」すべき事、「聴講券ノ再交付」の際には「手數料」として「金五拾銭」を納入の事、「授業中及試驗中ハ退席」を許さぬ事、授業中「濫リ二質問シ」授業の進行を妨げぬ事、「建物器具等ヲ毀損」した時は「速ニ辯償」すべき事。そして、「出席缼席其ノ他ノ心得ニ關スル細則ハ別ニ之ヲ定ム」とされている。
 その後に、「●入學手續」として、次の様な4点が印刷されている。入学志願者は所定の「願書用紙」に記入捺印の上「入學試驗儉定料」を添えて出願の事。「願書」には「正課及特科各其資格證明書」を添付する事。「入學試驗合格者」は所定の「誓約書用紙」に「記入捺印」の上提出する事。
「保證人」は大阪府内に「在籍」若しくは「寄留」の「戸主」で「身元確實ナル能力者」である事。
 14頁には「◇参考」として次の様に印刷されている。

 同頁ではその後に「●聴講生」について次の様に印刷されている。

 15頁には「●本校所在地●」が「大阪市外長瀬」とされ、「大阪上本町六丁目」から「本校」迄の大軌電車の路線略図等が印刷されており、「電話小阪一〇一番」とされている。
 冒頭部で述べた様に、この「學則要覧 日本大學専門學校」は発行年月日が印刷されていないので、正確な発行時期は分からないが、日本大學専門學校に関して従来行なってきた精緻な実証的研究の成果を踏まえて、この史料を分析すると、自ずと発行時期が絞り込める。その手掛りとなるのは、前身校の名称、校長名及び校長代理名の2点である。
 日本大學専門學校から 日本大學大阪専門學校への名称変更の典拠は、国立公文書館所蔵「自ママ大正15年2月至昭18年2月 大阪専門学校 第109冊」(分類:文部省47 排架番号:3A・10-9・1612)所収の第六文書である。そこでは昭和14年「大専三六號 裁決定3月31日 送達3月31日」、「日本大學専門學校ヲ 日本大學大阪専門學校ト改稱ノ件」とされている。また、昭和14年4月4日発行の『官報』第三六七一號掲載の「文部省告示第百九十八號」で次の様に告示されている。

 以上から、日本大學専門學校から 日本大學大阪専門學校への名称変更は昭和14年4月1日であり、従って、この「學則要覧 日本大學専門學校」は、校名からは 昭和14年4月1日より前の発行である事が先ず言える。
 次に、 榊原坤作校長(昭和8年9月就任)時代に 、 小野村胤敏先生が校長代理に就任した事の典拠としては、昭和11年12月15日刊行『教育タイムス』掲載記事「策動を排して日大専門校長決まる 少壮、小野村氏に栄冠」(関西大学年史編纂室所蔵「 小野村胤敏氏関係日本大学(大阪)専門学校 1」収録)末尾に「小野村胤敏氏略歴」があり、そこでは「昭和九年七月、日本大學理事代理、校長代理」、「昭和十年十一月、日本大學専門學校長就任」となっている。そして、小野村胤敏先生が校長に就任した事の典拠としては、『公文類聚・第六十七編・昭和十八年・第百二巻・学制(大学)」収録の「大阪理工科大學ヲ大學令二依リ設立ス」と題する文書中の「財團法人大阪理工科大學役員調」に「小野村胤敏理事長」の「調」があり、そこには「昭和十年十一月、日本大學大阪ママ専門學校長就任」となっている。因みに、「近畿大学創立65年の歩み」収録「学校法人近畿大学沿革」では「昭和11年11月 理事兼第5代校長に理事代理、校長代理教授小野村胤敏就任」とあるが、「昭和11年」は「昭和10年」の誤りであろう。
 以上の如き前身校の名称、校長名及び校長代理名についての厳密な実証的考察から、この「學則要覧 日本大學専門學校」の発行時期は、 昭和9年7月から昭和10年11月迄の間に絞り込む事が出来る。
 この様な時期の史料である「學則要覧 日本大學専門學校」に於て最も注目されるべきは、6頁から13頁迄に印刷されている「一」から「十一」迄に亘る「日本大學専門學校學則要覧」の「一」で「本校ハ法律學、商業學、經濟學ノ學術ヲ教授シ併セテ之ヲ考究スル所トス」とされ、更に「二」で「本校ニ法律科、商科ヲ置」くとされて、学校の本質規定がなされている事である。
 大正14年3月14日に「法律科、商科、政治科」を「開始学科」とする専門学校として設置が認可されて(国立公文書館所蔵「大阪専門学校 大阪 第5の1冊」国立公文書館・文部省・㊼・10-9・1611)呱々の声を上げた前身校は、昭和10年代に這入ると、日中戦争に起因する社会経済的変化からの影響を蒙る事になる。
  昭和11年11月10日に「大阪府中河内郡彌刀村ニ設置セル日本大學大阪中學校ノ位置」を「昭和十一年十一月ヨリ大阪府大阪市東淀川區ニ變更」するのが認可され(昭和11年11月12日発行「官報 第二千九百六十號」掲載の「文部省告示第三百五十號」)、翌12年に同中学校は「位置」を変更した(『創立五十周年記念誌 大阪学園大阪高等學校』昭和52年 13頁)。恰もそれと交替するが如く、この昭和12年には4月に日本工學校が開校しており(関西大学年史編纂室所蔵「日本大學附属 日本工學校入學案内」)、そして昭和14年1月21日には日本工業學校の設置が認可され(昭和14年1月21日発行『官報』第三千六百十二號掲載の「文部省告示第十八號」)、同年4月1日に開校している(国立公文書館所蔵『工業学校台帳・長野~大阪』収録「日本工業学校」)。更に、昭和15年2月14日に前身専門学校に於ける「理學科」併設の「學則変更ノ件」が認可されている(国立公文書館所蔵『大阪府 第五冊ノ一 大阪専門學校學則』(第二 教育門 わ一ノ六 文部省文書課記録掛)収録「大阪専門學校學則中変更認可 昭和十五年二月十四日」)。
 それ故に、昭和9年7月から昭和10年11月迄の間に発行されたと判断されるこの「學則要覧 日本大學専門學校」は、大正14年3月14日に設置が認可された前身校が、基本的には設置以来の文系の専門学校という性格を保持した最終段階の実態を示す格好の史料であるという事が出来るのである。
 しかし乍ら、末尾に付言すべきは、人事の面からすれば、この「學則要覧 日本大學専門學校」には前身校に於ける新しい萌芽が見られる。それは小野村胤敏先生が校長代理に就任している事であり、小野村先生の下で前身校に於ける前述の如き理系教育の充実に舵が切られるからである。

追記
 ここでは近畿大学の前身校関係者は「先生」としている。
 原典尊重の観点から引用史料の表現・漢字は、原則として、そのままにしている。
 念の為に記せば、引用部分に誤り等がある場合は、当該箇所に「ママ」と付記している。


文:広報室建学史料室特別研究員・近畿大学名誉教授  荒木 康彦
写真:日本大學専門學校校舎(「學則要覧 日本大學専門學校」p.4)


(2022年12月1日公開)
(2023年3月2日修正)


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